★シェイプオブウォーター
いいコメディでした。よかった。何故かというと「水底」「冷戦」「異形」「クラシックジャズ」という要素は僕は大好きだから。最近、高校の時からの友達からもらった「バイオショック」というゲームをやっている。たぶん、三、四回は繰り返しやってる。このゲームもまた、「水底」「冷戦」「異形」「クラシックジャズ」という要素を含みながら、この映画と同様に「人間の愚かさとは?生物とは?生殖とは?」を考えざるを得ない作品で、ゲームであるにも関わらず、生命倫理学、文学、映画と同一地平で語られるほど価値があるものだ。ちなみに、僕がもらったパッケージには「ゲーム史に残る不朽の名作」と書かれているが、これは間違いで「全ての形式の物語史に残る不朽の名作」である。それはさておき、そーゆーバイオショックをガッツリとアナムネシス(僕が持ってる端末なのに、想起さえ予想変換に出てこない。全然スマートじゃない)するものだったので、その養分接種のために見た。ミスペレグリンと、似たような、とてもいいメッセージがあった。それは「今この場所が嫌なら、逃げよう、新しい場所に出よう」というもの。実に人間らしい、人間の、または、人間に限らず知性ある「物語るもの」たちの可能性を描いたものだと思う。いま、リチャードドーキンスのSelfish geneを読んでいて、宇宙空間の全ての物質は、安定した形になる、ということが示唆される。泡が丸くて、塩の結晶が四角いのは、そのかたちが安定してるから。で、地球が生まれたての頃、タンパク質からDNAという自己複製するものが生まれた。それらは種類が別々で、それら一つ一つが安定するために、他のDNAをもつ個体を殺し、自分だけが繁殖し、半永久的に「安定」しようとする。DNAは自分勝手だ、だから「利己的な遺伝子」というタイトルの本なのだけれど、異種間での生殖も示唆されていて、(馬とロバでラバが生まれるが、生殖はできないこと)これらは何らかの間違いであることも言われてる。つか、さらにいえば、タンパク質からDNAが生まれたことじたいが、安定性からかけ離れた危険な賭けであったということも考えられるわけで、たんなる化学的所産である私たちは、はなから安定からかけ離れた、安定や普通といったクソ下らない概念からは間違った存在なのだ、とさえ僕は考えている。それでいいと思う。間違ってもいい、最初から間違いだらけの我々は、うまくいったらしめたものなのだ。多大な損失をすることもあるだろうし、最愛のひとが去っていくこともあるだろうし、場合によっては、戦地で、事故で、人を殺さなければならないこともあるだろう。だからといって、必要以上に悩むことはないのではないか。人間社会には法律というものがあり、罪刑法廷主義に基づいて、罪を償うのだし、日常の些細なミスには、適切な対処をしたあとにもクヨクヨ、グジグジすることがよくあるけど(僕だけか?)不必要に悔やんだりすることはない。だって僕たちは最初から間違ってるんだから。
間違いのうえに、さらに「抽象」という雲の上をつかむような概念を脳みそにプログラムされた僕たちは、爬虫類脳を新皮質というオブラート、ミルフィーユ、または化学調味料をまぶしたかのような恥と間違いの上塗りをしている。
だから、自分達がからだの細胞の核に一個一個持っている利己的な遺伝子の本能から逸れて、彼女は半魚人とセックスもする。それでいいのだ。
あの画家の言葉がよかった。半魚人が猫を食ったあと、自分も切りつけられたのに「猫を食べたのは彼の本能だ、仕方ない(あいつ、とかあれ、とかの言葉で半魚人を指したのではなく、彼とよんだ)」と言うシーンはよかった
あと、ゾッド将軍の俳優のベッドシーンでなぜボカシが?主役のひとは性器までボカシなしだったのに。15禁にする意味ある?
主人公が毎日決まった時間に自慰行為をするだけで、「あ、このひと普通じゃない」って思わせてしまうから映画ってすごい(笑)でも、普通じゃないから普通じゃない幸せを見つけられるんだよね。
神とか運命(スティーブ・ジョブズのスピーチのように、過去の出来事の点と点を繋げて線ができるように、運命はあとからわかるものだ。ジョブズのスピーチを最初から最後までよんだわけじゃないけどなwww)とか禁忌を投げ捨てて、今が不幸せなら、危険なかけにでて、遠くへ行ってみるのも素晴らしい選択肢なのだろう。それができるのは、縄張りを契約という紙切れ一枚によって変えることができる人間の可能性であり、挑戦だ。

反知性主義の本も読んだが、ザビエルがキリスト教を日本で普及するさいに、「ゼウス」を「大日如来」というふうに、自分が信仰する、全知全能(これこそ(笑)がついてしまう)の神に、嘘偽りの名前をつけて、まわりに八百万の神が存在すると考えている誇大妄想狂の日本人をだまくらかさないと、歯が立たなかったのだ。

でもアカデミー賞取るほどのものかなあ…wwwたぶん、ドクターフーあたり見てると、結構こういう作品あるよねしかしながら、僕の恩師である宮教大の教授がいったように「素晴らしい作品は、人間(この作品では生き物)の可能性を描いている」という言葉を確実に証明するものではあると思う。これが受賞するなら、ぜひ今後はミスペレグリンあたりの、ティム・バートンが復活したあのいきおいにもフィーチャーがあってよいと思う。
ウルトラマンの怪獣って身体表現の宝庫だな。動き、声などなど。真似しよう。ウルトラマンを20代、30代でみた欧米の監督がこういうものつくるよな。納得。
とゆーわけで、みんなバイオショックやろうな。17禁だからって、悪い子はYouTubeでプレイ動画を見るなよ。あれじゃ良さが全然伝わらないから。ミスペレグリンは、子供の目ンタマ食う描写あるけど、全年齢だから観ろ。Blu-rayだ。エヴァグリーンの美しさが際立つ。

★13日の金曜日
映画好きを自負しておきながらこれを見てなかったわ。95分!?みじけえ!かならず、いやなやつ、乳繰りあってるやつをぶっ殺してくれるので、本当に清々しく見ることができる。80年代のアメリカの綺麗な自然の風景を、意外と綺麗に撮影してるので、普通に見いってしまった。基本男は半裸の世界なんかこれ、推理小説っぽくない?登場人物がみんな怪しいから、誰が犯人かあてる、みたいな雰囲気になってないか。スリラーのジャンルに当てはまる。ビキニのかたちは大昔からなんの進歩もない。おっぱいが透けてるけどなんの嬉しさもない。80年代の女の人の中には気にしない人もいたんだなあ、ってことくらいしかおもわん。
なんか、いるじゃん。こっちが一生懸命場を盛り上げようと天然キャラをしてあげてんのに、自分のボキャブラリーの貧困さを棚にあげて「どこから突っ込めばいいかわかんねーよ!」とかいうやつ。そーゆーキャラばっか出てきて、あー、みんな死ぬんだなあ…と、安心して見ることができる。風の流れや温度が変わると、雰囲気も変わる。文学のレトリックの基本だけど、映画でも使えるね。ストリップモノポリーってなんだよ!たのしそう!あと、二段ベッドで、下のベッドでセックスしてんのに、上のベッドで首切られて死んでるのわらっちゃったよ。性と死の、エロスとタナトスの対比を表したかったのかな?
手作りで頑張った、ってかんじの映画。こっから死霊のはらわたとか、生まれるんだなあ。もちろん、この作品の前に悪魔のいけにえとかがあるけど、それらとはなんかが根本的に違う気がするんだよ。そう考えたらやっぱひとつのジャンルを作った偉大な映画だなあ。えっちするときは、自分の家など、人様に迷惑がかからない場所でしましょう。でも、もしかしたら自分もこういう目に遭ってたかもしれない。(一回目の)無職最後の日、後輩の芝居を見に東京にいったんだけど、泊まった場所が、明らかにホームレス用の簡易宿泊所を改装したような場所で、ホームレスではなさそうな、若い人が相部屋だったにもかかわらず、部屋の電気をずっとつけたまま、一睡も出来なかったのを覚えている。もしかしたら、バツン、と電気が消えて、ひとり、またひとり、死んでいったかもしれない。山手レストハウス、ってところ。怖かったなあ。
13日の金曜日ってジェイソンの誕生日なんだね…結局最後は女同士のプロレスじゃねーか!ホッケーマスクのホの字もでてきやしねえ!
トムサヴィーニは、特殊メイクのひと。
メイキングから
まず、昔に起こった不吉な事件が必要だ次に大人の助けを得られない状況に思春期の若者たちをおく性行為に興じた者は死ぬ欲望に忠実な人間は必ずしっぺ返しが来る
ジェイソンのお母さん役の女優ベッツィ・パーマーが、台本はひどいし、こんな映画絶対誰も見ないと思ったけど、新しい車がほしかったから出演したの、ってぶっちゃけてて笑ったし首から血が吹き出る場面で、特殊メイクの人が、本番中にポンプが外れて、とっさに口の息で血を吹き出させたという武勇伝もある
斧は発泡スチロール。
最後の湖の場面で、パラマウントの社員がみんな飛び上がり、配給が決まったChair jump
映画館で、殺されそうになる女に、客がスクリーンに向かって「そこに入るな!」と言われるほど、熱狂ぶりだった、映画館を出るとみんな満足していた批評家には金儲けの作品と言われた
本作が人に悪影響かどうか異常者が本作を何万回とみて人を殺してもそれはわたしの責任ではない
映画で一番大事なのは興業成績成功するとチャンスが増えて冒険できるから
ジェイソン役の人が成長してめっちゃイケメンになってる
生き残ったエイドリアン役の女優はこの作品のあとストーカー被害にあった。それで気持ちが落ち着かなくて、次の作品にはほとんど出ていなかった。それが理由なのに、ネットではギャラのことでもめたことになっていたらしい。28年もそんなふうに思われていた!
13日の金曜日を作った当初は、次回作のアイデアなんかなかった。お約束の展開が安定感に変わって、ブランディングがされていく。
突然の死への恐怖を客観視させ、和らげる意図があった
真犯人に関する情報を一切出さないで観客に推理を楽しませるやさしい、いいイメージのよい役者が出てくると、観客は味方が現れたと思う。(1回目ぽっと出の奴に裏切られ、そいつから逃げ切り、二回目に現れた奴に助けられる。その二回目のやつが、1回目のやつを殺している、とか?)最初の場面はあまり怖くないようにする。そうすれば観客は、この程度の怖さか、とたかをくくる。次の恐怖の場面は死ぬほど怖くすれば「今の段階でこんなに怖かったらこれからどうなるんだ」と思ってくれる。本物の斧の威力を存分に見せてから、ゴムの斧を顔につけた女優が出てくると、恐怖とリアルさが増す
殺人鬼がいるときだけ音楽が流れる

ケビンベーコン

★フレディVSジェイソン
テンション高くていいなあさだこ対かやことかもこれくらいテンションたかいといいのに「難しいことはわかんねーからとにかく勢いでやったわ!」みたいな映画フレディのダイジェストはあったけど、ジェイソンのはないのかあ。ジェイソンが復活するときにフラッシュバック的に全作品思い出せばよかったのに、矛盾ばっかだけどなんで外人って川に飛び込むフォームがあんなに綺麗なのかこういうスラッシャーは、バカなやつみんな死ぬからイライラがなくなるからいいね。フレディが夢の中で殺そうとしてたターゲットを、ジェイソンが現実の世界で先に殺しちゃって、それがフレディとジェイソンの喧嘩の引き金になるの面白いそして、ジェイソンはめっちゃ燃えてるのにゆっくりあるいてきて、燃えるマチェットをバカデブに投げつけて突き刺すのがすごくかっこいいこーゆーバカホラーは、最初に伏線として女の子が「空手習ってるのー黒帯なのー」とか言っておいて、その子がピンチになったとき、すさまじい威力の技を見せつけたあと「黒帯だって言ったでしょ」とか言うとかっこいいんだろうなあ。
その目がいやがっても俺の口がキスしろといっている←世界で一番バカみたいな台詞
ジェイソンは水、フレディは火が弱点という偶然のコントラスト。フレディとジェイソンの戦いはやっぱプロレスでも、フレディのせりふ「welcome to my nightmare 」は狂おしいほどかっこいいそう、悪いパリピをぶっ殺したら、怪物同士のプロレスを観たいんだよおれたちは。
フレディがジェイソンの鉈を奪って使う場面があったんだけど、ジェイソンがフレディの腕をもぎ取って、あの鉤爪を突き刺して相討ちするのが僕好みの展開でよかった

フレディはカラコンしてないんだな。それであの狂気は素晴らしいから見習いたい全裸の少年フレディに対して、母親の生首を見せつけるフレディなぜか人工呼吸されそうになるジェイソン
現実世界に呼び戻されて、うしろにジェイソンがいるときのフレディの目がめっちゃびびってるwww

★キャプテンアメリカ 
シビルウォートニースタークの親とバッキーのくだりいがい、ただの仲間内のじゃれあいじゃねーか!なんにも考えないでみられるいいPV。

★セブン 
デビッドフィンチャー監督はエイリアン3あたりをつくったひと。さしてあんまはまらなかった。ドラゴンタトゥーの女は同じ監督だけど007以外のクレイグ観たくないからたぶんまだ見ない。次はディズニーの主要作品全部みるから。(笑)山の手、って高台の屋敷街のことだからニューヨークにも山の手ってあるんだな。僕は今まで空気を作ったけど、壊したことはあるだろうか。空気に順応するってのは。ブラピ、演技へた。日本の文学的フィクションの猟奇的な部分に沿った連続殺人とか、古事記あたりに取材したサスペンスってあるかな。あるんだろーけどな。これ、なんで、ブラピが犯人だって思えないんだろ。不思議。どうしても、ノーカントリーとか、羊たちの沈黙と比べちゃう。クラリスもたくさんの重装備と人たちで犯人の家に突撃すればよかったのにねこんな世界に子供を産み落としていいのか?かいぎゃくがないと、次の展開がわかってしまう。最初の、犯人との追跡場面はどーせ犯人を捕まえることはできないし、そのあとに主役二人は仲間割れを起こすことも簡単にわかってしまう。これ、ブラピだから悶々とするけど、不細工な俳優つかってやってみたら、この結末すごくにやにやしちゃう。未来を諦めない若者が不細工なだけで、何いってんだこいつ?と観客は思う。特に意地悪なやつは。またケヴィンスペイシーかよwww エンドロールの一番最初に犯人とその俳優の名前がバンと出るのはいいね。こーゆーサスペンスなら。本をちょっとオーブンで焼くと古い感じになるのか…

★ファイトクラブ
世の中の女の人全員が子供がほしい訳じゃないって、自分、あの本持ってるじゃん…これ、1999年の作品。僕がうち震える感性って、古いのかも。外れものの描写とか、ひねくれかたとか、そーゆーものって、最近あんまない。最近ないから、さよならを教えてとかやってみたくなるし。すれた感じが好きなのだろーな。ヘレナボナムカーターがやっぱいいな。フィンチャーの作品って笑いがあれば結構見やすいな
車の台数✖事故発生確率✖弁償金平均額がリコール費用より低ければリコールしないリコール費用は客が負担するからだセブンの直後に観たので、セブンのブラピが頭おかしくなったみたいな感じで楽しく見れる。ピントがぼやけた背景が急にピントがあって大爆発したら面白いのに。妄想オチなのはわかってたけど、既存の人間関係もがらっとかわって、でもそれも夢オチだったって作品は意外と少ない。もし、ぼくがファイトクラブ入ったら、目を潰されるのが怖いな。でも、演劇が僕にとってのファイトクラブのような装置だったのかも。生きてる実感があるような。硝酸でニトログリセリンができる硝酸ナトリウムとおがくずを足すとダイナマイト石鹸がダイナマイトになる人間の灰の灰汁と脂肪を混ぜると石鹸と同じ組成になるここまで、すれてんのに、なんで神観念は捨てないのかってことなんだよな。「神なんかいないんだ!」くらいのこと言えるんじゃないのかなエドワードノートンとの接触がヘレナボナムカーターにとってほんとのセラピーになってたってことか。で、そのかわりエドワードノートンにとっては、って話なんだな同じ服、同じ髪型、同じ顔の集団はたいしたことなく腐って終わる。タイラー軍団もしかり、僕の前職もしかり。
別人格との会話で配線を知ってるのか?頭脳はひとつだってのは面白いし、別人格がその場に何人も現れるようなモチーフも面白い
伝統的なパンチの音は枕カバーにセロリを巻くそれをくぼみの上で折れば骨折の音鶏肉のなかにクルミを入れて殴る音はリアルそれを暗めに編集する
金髪の男はジャレッドレトだったのか!
追記、この映画は、妄想してる人と周囲の人のもののみえかたがちがうシックスセンスとかとちがう。シックスセンスでは、ブルース・ウィリスは幽霊だから、妻との会食に来たときも椅子を動かしてはいけない。(妻からしたら幽霊が勝手に動かしたことになっちゃうから)ところが、ファイトクラブでは、エドワードノートンとブラッド・ピットを取り囲む男たちは、エドワードノートンが産み出した妄想の産物であるブラピにガンガン話しかけるし、構うし、タバコの火も差し出す。矛盾してるはずなんだけど、許されているわけだから、こういう矛盾しているものも、観客が追い付けないような大量の情報の洪水などをもちいた熱量で押しきることも、時として必要なのだろう。ブラピとエドワードノートンが同一人物だから、矛盾してないのかな?エドワードノートンは、ナレーターという役だということがエンドクレジットで判明するから、
ナレーターにとって、現実世界のエドワードノートンはブラッド・ピットの皮を被ったエドワードノートン。ナレーターにとってエドワードノートンとその周囲の人々は妄想の産物。そんなかんじなのかな?わかんねえよ‼

★バタフライエフェクト 
カオス理論脳の断面と蝶の羽ばたきのコレスポンデンスここでもセブンかよチビデブのガキンチョがすごい強気な映画40センチくらい身長高いやつをぶん殴って蹴ってるオーロラの彼方に、や、ローガンラッキーあたりも観てみたいヘビメタのデブが意外と友達思い。隣でデリヘル呼んでセックスしてるけど。タバコについてI quit hundred times. あちらがたてば、こちらがたたず、な映画だ。全てを知ったら、最良の選択しかしたくなくなってしまう。でも、最良の選択は得てしてできないからどこかで諦めるしかない。あと、子役がゲスイセリフをガンガンはく珍しい映画犯人が釈放された被害者の恐怖も描いていると思う。そういう映画ってあったかな?この女の子にとっちゃ、実の父、実の兄が恐怖と悪の対象で、現実にそういう関係があるということ。前の職場、この映画の悪人ばっかえばってる刑務所みたいだったな。母親への気持ちと好きな女への気持ちのベクトルの違いって、ここではどんなだったろうな。冷静な人間が宗教的モチーフの現象に触れてキャラが変わった。過去に戻り、絵を描いたとき、両手に針を突き刺した。それは聖痕になって現在に作用したため、冷静で熱心なクリスチャンがびっくりした。子供が子供を殺すバトル・ロワイアルも真っ青な映画。でも、こういうループものって、役者は楽しいよな!ひとつの役がたくさん枝分かれしてるわけだから。一粒で何度も美味しい。腕を失っても、冗談を言うんだけど、顔面蒼白なんだよ。でも笑わせたいのは、笑顔を見たいからなんだろうな。 僕もあんな風に、力の抜けた静かな顔で冗談を言えるようになろう。どやがおせずに。暗いBTTF2であり、暗ーい「君の名は。」だった 。
羊水内の胎児に戻って、へその緒で自分の首を絞めて自殺するエンディングがあったって聞いたけど、実行はされなかったのかな。
いまんとこ、結婚もしたくないし、家族もほしくないな…
追記、宗教的動作、超常現象的シーンはノンバーバルアクティングにおいて非常に使いやすい。

★ドニーダーコ
 ピザでけえな!コーラは瓶で飲むのか!結構最近、数年前に、フィリピンだかの飛行機が失踪したよね?あと、数年前に、病院での謎の連続死亡事件あったよね。あれどうなったっけ?ジェイク・ギレンホールってoctober skyの主役の子だったのかよ‼さすが複製された男や…二十歳なのに高校生の役をやっててすげーな。意外と童顔だったのかも。
あいつらがさせたThey made me do it.
ジム・カニングハム
キリスト教信者以外の宗派が大統領になるよりも、無神論者が大統領になるほうがよっぽど難しい欧米圏で、こういう映画ってのは、無神論を広めようとする裏テーマがあるんじゃないかななんか笑えるのに、恐い場面はキューブリックのシャイニングを彷彿とさせるカメラワーク。こっちの劇中映画は死霊のはらわたオリジナル版かよwww Cellor Doorだからか?
つか、あんなかわいい女の子と付き合えたら、妄想の自分なんかいなくなるだろ。登場人物のだーれにも感情移入できない
テレビ宣教師の屋敷が児童ポルノの館と呼ばれて、そいつが逮捕される展開は笑った。骸骨がペイントされたツナギかっこいいな。
バタフライエフェクトとドニーダーコの関係性についてネガティブで曖昧な感情要因から発生するタイムトラベルという共通点はあるし、そこに催眠術が絡む点も同じ、結局自己満足のために時間を巻き戻している。今はそれくらいしか思い付かん。とにかく難解だった。いつドニーダーコがもとの時間軸に戻れたかがわからなかったから。 客観的な結論を得られない映画だと、主役のジェイク・ギレンホールが言ってるのだからもうそういう映画だったのだろう。マギーギレンホールはジェイク・ギレンホールの姉。恐怖奇形人間とかも観てみたくなる。なぜかわかんないけど。
バタフライエフェクトとドニーダーコは、タイムトラベルのループものっていう前情報があったから、比較して語ることができればいいなって思ってたけど、こんなんできるわけないだろ!いい加減にしろ!
暗い精神面とタイムトラベルのテーマの融合で、雑多感があって、僕が求めてるものではあるんだけども、他の人にはあんまりおすすめできないなあ。
結局、ほんと突き詰めてしまえば、二重人格の話。
でも、あんなかわいい女の子と付き合えたら、二重人格なんかなってる暇あったらイチャイチャしろよ!
一緒に映画見に行って、彼女が寝てるからって放火しに出ていくなよ!って思うけど、ドニーダーコや彼の母や妹、彼女たちが死ぬ運命は決まってるから放埒に生きてその結果正義をおこなう行動をしてよかったのかもしれない。世界の終わりは自分の終わりだということを最初からドニーダーコは知ってたんだろう。終末を宣言するウサギのフランク=ドニーダーコなんだから。

★メメント
この作品はフィルムノワール。フィルム・ノワール (film noir) は、虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画 を指した総称である。 狭義には、1940年代前半から1950年代後期にかけて、主にアメリカで製作された犯罪映画を指す。
難解だなあ、と思ったけど、やっぱりだんだんとわかってくるし、最後ははっきりとしたひとつの像がポラロイドのように浮かび上がってくるレイプとか、下品な悪女とか、どんどんと殺されていく人たちとか、こんなのノーラン作品じゃあない、と最初は思うんだけど、やっぱ前のめりになって、写真の小さな汚れとかも何かの伏線なのではないか。と思ってみちゃう。そして最後には、「ああ、やっぱノーランだわ」と思う。最後の彼は、記憶を失っても、意志がある。この映画はフィクションだから、僕もフィクションの概念をつかって言えば、記憶を失っても、自分で運命を選択する魂がある。(運命や魂はフィクションだ)それを感じさせる、一人の人間の決断や意志を感じる、しかも例え殺人を犯す運命だとしても、まっすぐな意志だ。結局、テディを殺さなければ、レナードの殺戮は延々と続く。だから、レナードは自分で自分の無限ループを絶ちきったのだとおもう。そこにノーラン独特のヒューマニズムがある。記憶は溢れていくけど、魂だけは残った。
観客はフィクションのなかで何が起きてるか知りたいし、主人公も知りたい二度見ても新しい発見がある作品はよいものだ
撮影が25日半でおわったのかその前のフォロウィングという作品は、みんな仕事があるから毎週土曜に15分だけ撮ったものを集めたらしい。それを一年で完成させたっぽい。あと、ノーランは16歳のときにエンゼルハートという映画を見てびっくりしたらしい。今度見ようかな。
ノーラン、若いなあ。16年前と変わらないよ。
映画祭の観客はあまり批判的ではないらしい。演劇もそうだけどメジャーな集まりでは意外と批判される。メジャーな集まりのなかには、共有できる知識や経験を持つ層が薄いからだ。美術的なこと、ドラマツルギーてきな知識、哲学的な視点を持たないひとも見る。もっと簡単に言えば、月9とかのドラマで感動するひととか。悪いとは言わない、僕には理解できないだけ。フィクションの作り手になったことさえないひとも、メジャーな集まりには来るから、そういう一家言あるようなひとたちとは相容れない。メジャーな集まりには、幅広い層の人たちが集まるから、先鋭化したものに慣れない人もいるので、そういうひとはすぐに、早い段階で、作品を理解することを諦めてしまいがち。だからといって、マイナーな集まりが手放しで礼賛できるわけではないということを身をもって知ってるわけだが(笑)東京という雑多のなかで、どんなマイナーな集まりに僕は入って、ある程度の結果を得られるだろうか。んー、なんか、うまく言葉にできないな。こんな感じは久しぶり。心につっかえてるな。

★太陽を盗んだ男
水谷豊!この雑多感は僕が求めてたものにちかい。幼稚な、無知な視座からでも得られるものはある。視座によって雑多なものがコレスポンドして全てが繋がるひとつの結末にいかないような雰囲気。最近の映画はひとつの結末やひとつのストーリーラインが最初に提示されていて、僕にとっては悪い意味で純化してる。雑多ではない。雑多な雰囲気を味わえる点で稀有な映画だと思う
ひとつの結末しかないはずなのにたくさんの結末があるような、そんな映画。カメラワークがキューブリックを彷彿とさせる
日本映画の「見る麻薬」。沢田研二の執念深い肉体が、天才ではないはずの、知性的には普通くらいの教師がプルトニウムを盗むことを納得させる。普通の役者がやったら夢落ちだろうと思ってしまう。んーでも天才か。黒板に原子爆弾の作り方書いて授業してんだもんな
原発に賛成だろうが反対だろうが、遅かれ早かれ人は死んでいくし、死に様はどうなるかわからないのだ。だから、どう暴れて、世の中をめちゃくちゃにしていくかということに、快感や意味や価値観を抱く人間だって少なからず存在する、そういう人生も間違いではないのだ。沢田研二の妊婦コスが美しい。それで国会議事堂に入っちゃうから驚きプルトニウム239原爆とボイススクランブラーは誰でも作れる、というパワーワードブラックレインとの対比松田優作との対決に高倉健がいれば、どっちが勝つかはわからないでも沢田研二との対決に菅原文太だと、たぶん沢田研二が勝ってしまう
ところが!魔界転生のように沢田研二の対決に千葉真一だと、どっちが勝つかわからない
ブラックレインは1989年に、この作品は1979年に作られた東京033540218  033790951

ラジオの原爆コーナーって…!ここまで人間と人生をばかにできたら何て清々しいのかな江川と長嶋で原爆でキャッチボールさせたい
警視庁の屋上で女がここで食べると70円の豚汁も七千円に感じるわって言ったけどそれは言い過ぎだろ
政治家も、労働者も、学生運動も、若者も老人もガキンチョも、みんなバカみてーだな、って思いながら監督が撮影したに違いない。そのスレた視座が好きだ
喫茶ルノアールはこの頃からあるのか
もし自分に子供ができたら、これを十代のうちに見せてやりたい。
世の中諦めて、くそにーとだった自分と最後らへんかさなった。東京のど真ん中で、てきとーなスーツ着て、いかにも真面目そうに生きてるけど、結局数ヵ月前まで何もできない人もどきだったじゃないか、僕は。結局はひとのかっこうしたただの低脳な動物なのだ。それがスーツ着てあるいてる。いかにも仕事できそーな格好だけして、ただ地面を這いつくばった自分と言うなんの価値もない単細胞な虫が歩いてる。
欧米では描けないであろう、狂人の敗北をしっかり描いている。ダーティハリーの前例はあるにせよ。一般的な描写では狂人は死を恐れない。ところが、沢田研二は、菅原文太に屋上から落とされそうになって、心のそこから恐怖を叫ぶ。たとえ菅原文太が死んで、沢田研二はその場の戦いにおいて生き残ったとしても、恐怖を感じたら、それは狂人ではない。ただの人間になり下がった。その点で、沢田研二が負けたのだ。
猫がプルトニウムを食べるシーンの芝居が大変で、業者から「(殺しても代わりは)何匹もいますから」と言われたが、猫を殺すのが嫌で最終的にはマタタビを使った。相米が何百フィートも回して撮ったという[16][21]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/太陽を盗んだ男

★ダンサー・イン・ザ・ダーク
モキュメンタリー的なテイストマーク・トウェインは「私は死は怖くない、私が生まれる何百億年もの間、私は死んでいたのだから」と言ったもしも自分がこうだったら、というのは現実を軽視しているもしかしたら、僕も工場でつとめて、足や手をミキサーでぐじゃぐじゃにして、社会の使い物にならなくなってたかも不良たちと付き合わなかったのは、付き合えなかっただけ背が小さいから必ずパシリになるだけという諦念。鬱映画も自分の人生と比べると、トントンな面がある。楽しいことはすぐ忘れるから。昔、あーだったことも、今、こーなってることも自分の選択。何百億年も続く宇宙の歴史のなかで覆らない真実と言える事象が自分の人生なんだだからやりたいことは全部したほうがいいし、食いたいものは食った方がいいそれでも嫌なことはある、その時どう捉えて、やり過ごしていくか、どうやって自分の人生にするかに哲学の意味がある。
でも、鬱な映画の頂点はファニーゲーム。一部は、怖くて早送りしないと見られなかった
明日は我が身。英語も中国語もできないと僕はなにもないから手足もなくなって死んでいくのではないか

主人公の相棒はカトリーヌ・ドヌーヴ、幸せの雨傘の人だ
主役の人のガサガサ声がミュージカルパートでディーヴァになる。その時、肉体が躍動していると思って凄かった「この人歌手なのになんでこんなにカサカサなん?」って思ってたもん、芝居うめーな予想できる展開をすり抜けるには、全然違う場所の連続を見せるのがよいか?
日本のドラマって弁護士が悪役だったり無能だったりしないよね?ストーリーに欠陥がある。「これ以上見るものはない」という歌をうたってても子どものことをよく考えてたりするし、そういう心的、感情的矛盾がある。またこの脚本の場合、セルマが必ず約束を守るとか、そういう、前提がないから、なんで裁判の時嘘ついたのかとかモヤモヤする自分が不利になることを言うには相当な理由が必要だ。おじいさんのノヴィがすごい。肉体的、生々しさ。
自分の子どもが事実と向き合うことに価値があると考えられるかどうかが哲学の必要性では?現実の、現代の刑務所の絞首台でのアクションとかあったら面白いかも周りの音による音楽に生かされた人が死刑台への自分の足音という音楽によって殺されるちょうどセルマが死ぬときにメールが来てびびった。死刑賛成だし、閲覧もするべきだと思うが、それは死刑囚が反省の意思を見せない場合に限ってもいいのではないかと思ったいるじゃないか、最後まで人に尊厳を見いだせなかった者たちが。僕も目がほとんど見えないぼやけた状態で殺陣やらマジックやら芝居やらやってたわけで、いくらでも失明する危険はあった。それはともかく、そーゆーころの僕はヴァルター・ベンヤミンのいうところの、アウラを実感しては発散してたのかもしれない アウラは直観を紐解く鍵となりうるか。ヴァルター・ベンヤミンとベンジャミンフランクリンを間違えた。ベンジャミンフランクリンは元アメリカ合衆国郵政長官で雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。誰だよ!親の気持ちも知らないで、とかどんな立場で僕はものを考えてんだろなんかのPVだと思えば辛さが和らぐかも。楳図かずおのおろちにもにているただ、一時間くらいしてから、「これ、ソウと同じことしてないか?」とも思った。この映画の辛さから逃れる一種の逃避的思考だったかも。容疑者Xにも似てるが、石神の場合は自分に満足し、納得しているところに救いがある。この映画も最後の一瞬はそうだったかもしれない。ミュージカルパートは現実逃避の場面。みんな同じような思考回路なんだ、現実逃避するとみんな自分の敵が味方になってくれると思い込んでる「さよならを教えて」を舞台化したらミュージカルになるんじゃないか
自分が失明するから息子も失明するという思考回路はひとつの真理。僕の子どもも、低身長になるだろうから、子どもはいらない。
私に父などいないわ、名前もでっちあげよ
「好意に裏切りと憎悪で報いた」
「障害を隠れ蓑に」

パンズラビリンスとセットで観たら耐えられないだろう登場人物は明るいだけじゃダメださかくないと。ずるがしこい主人公は、僕は好きだ強いというのは、したたか、ということしたたか、とは、小賢しいということ、賢いということだから、強くなるには学ばなければならない

 

 

★ベンジャミン・バトン
まったく期待しないで見たが、とてもよかった。
確かに長いけど、一人の人生80年そのままを凝縮するので必然性がある。
ブラピが出てる映画、そんなに好きじゃないし、ブラピ自体魅力を感じなかったけど、このブラピはいい。
なにか、身体的にコンプレックスを抱えているか、それを熟知しているか、どちらにせよとても、癒されるような顔をする。
幸せのかくれ場所、と同じように、自分よりも年下がいろんなことを、非言語的なことも含めて、暖かく教えてくれる。それは、「誰しもが誰かの親になる」
という、見落としがちだが、今後普遍的な価値観になるであろう、重要なテーマを、この映画も内包していると思う。

★オーシャンズ11
痴話喧嘩でつまらなくなってた。
血が出ないノワール映画のお手本というところかな。

★ソー・ラグナロク
ケイトブランシェットがとにかくエロい。
あと、自分は、重苦しいテーマを、諧謔やユーモア、口の悪さなどの笑かしへと表現されたものを見れば、
とてもいいものを見たと思えるから、そういうものを作ろうと思う。
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーよりよっぽど面白いのは、たぶん、スターウォーズエピソード1
のような、宇宙人たちのるつぼのような衣装や生活様式が見えるからだと思う。
余談だが、ドクターフーのマスターに鳴り響く4回のドラムって、あれは結局親(自分が分化していった元の物体)からの刷り込み
だったと考えると面白い。
ふじょしが歓喜するのも無理はないと思った。
★しあわせの隠れ場所
好きなアメフトの選手は??と聞かれたら、レイヴンズのマイケル・オアーだと答えられる。
優しさというものは、遺伝で受け継がれるものではない。
臆病や怖さが、ある時反転して優しさに変わることもあるだろうし
実の両親が極悪人であっても、その二人からの影響が薄かった場合、
その後の環境が「極めて幸運」であれば、底抜けに優しい人間にもなりうる。
いや、もしかしたら、実の両親が極悪人であっても、優しい人間は存在するのだろう。
これも、極めて重いテーマを、機知に満ちたユーモアで見やすくした作品で、素晴らしいと思う。
極めて重いテーマを、機知に満ちたユーモアで見やすくするということは、僕が目指す昇華なのではないか。

★英国王のスピーチ
これ、舞台にしても面白いんじゃないかなー、日本語でも十分にいいんじゃないかな、と思ってたら、案の定舞台化されてたわ。
ローグ役の俳優は、ジェフリーラッシュ。ショーンパートウィーかと思ったら、バルボッサの人だった。
登場人物のサスペンダーがボタン式になっていたら、その瞬間で名画だ。
スタニスラフスキーシステムの「俳優修業」を、高校の時に読んでおけばよかった、と後悔していることを想起させた。
僕は、舞台上で大きな声が出せなかった。気持ちはこもるんだけれども、舞台から声が観客席へ届かないと、何度も言われた。
リアリズムの精神が邪魔をするのだ。「こんなに気持ちがこもっているならば、大きい声を出す必要がないじゃないか」
「共演者の相手にセリフを語っているのだから大きいことを出すことは不自然じゃないか」
そんなふうなことを考えていたような、気がする。
数年後大学生になって、「俳優修業」を読んだら、答えがあった。方向、ベクトルだ。
いろんな解釈が可能だが、「声を届けるベクトルが定まっていれば、声は大きくなる」そんなことが書いてあったような気がする。
そこらへんから考えが変わるようになった。
感情をぶつけるのは相手だけど、声はお客に届ける。声はどんだけ大きくなっても
感情(殊に視線に現れる)は共演者のほうを向いておれば、声がでかすぎても正直不自然じゃないし、それどころかそっちのほうが
見ごたえがあるものだ。
そんな2方向への、減少額的に言えば志向性のベクトルをもって
演じられるようになったら、声もスムーズに出るようになった。
要は、どこへ届けるかをしっかり定めれば、声は大きくなるし、言葉は出てきやすくなるのだ。
案の定、この映画でも最後の場面で「私だけに話して」というセリフがあり、おおっ、と感慨深いものがあった。
茨城のワークショップでも生かせるようにする。

★M:i:Ⅱ
見てる最中に虫が出るんじゃないかなとびくびくしてたら本当に部屋に虫が出た。
ミッションインポッシブルはなんか好きになれない。
たぶん、トムクルーズが生身でやってるスタントを、すごいって思えないからだとおもう。
すごいんだろうけど、それ、CGでできちゃうよね…っていう気持ちの方が勝る。
映画は芸術とは言い切れないけど、芸術的な、美しい場面があってしかるべきだと思う。
その点で007のスペクターとかは、たしかにCG満載だけど、クレイグボンドが優雅に活躍しているのを見ている方が僕は
フィクションとしてのスパイ映画を味わっている気分に浸れる。
このシリーズがトムクルーズの、ドキュメンタリーだったらすごいなあ、って見れるんだけどさ。
あと、前作もそうだけど、終わり方がなんか悲しいよね。物寂しい気がする。だから、お決まりのテーマソングがエンドロールで流れても
007並みの身震いが生じない。
音楽がハンスジマー。2000年。8歳ころの映画。小学生の頃すっげー面白そうな映画だなーと思ってたなあ。
★M:i:Ⅲ
最初に痛々しい場面があると、途中に面白い場面があっても、あんま笑えないね。
痛々しい場面や悲しい真実は、ドクターフーのように、最後の最後に見せるだけで、トラウマとして残る。だからこそよい、という価値観が僕のなかにはある。
2006年の作品だから、この二年後にダークナイト。上海あたりを舞台にしてるのは、ダークナイト側がパクったからだろう。
イーサンの奥さんが「イーサン、これどういうことなの!?」って聞いてくるけど、この世界にはスパイ映画はないのだろうか。
★ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル
だいぶ見やすかった。ただそれだけ…。
★M:i ローグネイション
007では、悪役が魅力的だ。ほんで、ボンドガールもそれぞれ裏の裏の事情までありそうで、実際にある、奥行ある人間性が一応は表されている。それに、007の悪役たちは、残酷だ。失敗した部下をワニに食わせたり、電子レンジのような機械に閉じ込めて、卵が破裂するみたいに体を破壊したり、金やコールタール漬けにして殺したり。
そういう残酷さが、現実の闇の世界のリアル「らしきもの」であると観客は思えるし、「毒には毒を」といったように、ボンドは冷酷な悪役を追い詰めると、風船のように破裂させたり、爆発する原子力発電所に置き去りにしたり、ライターで火だるまにしたり、宇宙へ追放したり(笑)あげくのはてに砂漠のど真ん中へ置き去りにして、
「喉乾いたらこれ飲めよ」
と、石油が入った缶を渡して自分は車で去っていったり。
そういう主人公の残酷さから、主人公の怒りや冷たさを、そして逆に言えば熱いものまで感じられる。
そんなかんじかな。ミッションインポッシブルシリーズには、主役がトム・クルーズだから仕方ないけど、そういう残忍というリアルが、ない。
★ミッションインポッシブル フォールアウト
トイレで戦いたくなる映画。トイレで戦いたくなる映画だった。
東アジアの人がトム・クルーズとスーパーマンの二人相手にほぼ互角といっていい戦いをするのはとても新鮮でよかった。東洋的な激痛。
私も今後トイレで戦うことになったら金属の配管を引きちぎって武器にします。
なんだろ、面白かったけど、敵に魅力がなくて
「あれ、この敵ってこんなんだっけ?」と思ってしまった。
でも、ベンジーが出てくるとやっぱ楽しいな。
えいがかんでみたから、結構前列で、隣におじいちゃん座ってて、じいちゃんショックで死ぬんじゃねーかと、そっち方面もドキドキした。
オープニングテーマで、だいたい何が本編で起きるかダイジェストでわかるところもよい。
ほんとに、サスケのドキュメンタリーを観てるかんじ。
007との違いは、ミッションインポッシブルはチームプレー。
だけど、007はQとかマニーペニーを道具として使う感じがある。
(まあ、これはダニクレから始まった流れであって、007全体の歴史から見たらかなり新しい流れ。その前なんかQやマニーペニーとのエピソードなんて取って付けたようなものだったから)
ところが、007とMの関係は、厳格な親と、その子供のような、独特な信頼関係があり、そこらへんが僕は結構すき。
ミッションインポッシブルはチームであり家族
007は親と子の厳然とした関係。
なんかそういう違いがある。
★グランド・ブタペスト・ホテル
上流階級のユーモアの、余裕を見せようとするが故のオバカな側面が楽しい。
警察に狙われてても黙とうをささげるし
風邪で死んだことをサラッと流すため、悲壮感は少ない。(映像も結婚式の場だし)
エイドリアン・ブロディ
ジェフ・ゴールドブラム
ジュード・ロウ
エドワード・ハリソン・ノートン
レア・セドゥ
マチュー・アマルリック
あたりが出てて、なんだろう、非常に豪華だった。
シャイニングとショーシャンクを組み合わせてミスタービーンが掛け合わさった感じだ…
言葉にすればするほど、美しさや感動が離れていく。分析や連想は、何の意味もなさない。

★ニンジャバットマン
なんだろ、物足りなかった…
映画化されたバットマンは、シリアスなおバカ映画であってほしいので、その点ではすばらしいんだけど、なにせ不朽の名作であるレゴバットマンと比較してしまう…
レゴバットマンは泣かせに来てくださるから、そのぶんおもいいれがあるんだよね。
主人公の行動の伏線が、現実世界にあるか、その物語世界にあるか、について。
 
バットマンがラストで
臨兵闘者 皆陣列在前
の九字をきる場面がある。
そこで、心得のある観客はそれが忍者の術のひとつであると得心する。たとえその九字切りが物語中一切伏線として存在していなくてもである。物語中一切伏線として存在していなくても、
物語の受容者が現実から得た知識を、主人公も知っていて使いこなす、というのは、主人公への感情移入を比較的容易にさせる。
そして、伏線を匂わせることなく、物語に現実世界の要素というものを付加でき、感情移入をうながせる。かなりいい。と、その辺に関しては思った。でも、舞台向けだったり、ニッチなジャンルの小説向けの小技だなあとも思う。

★ガーディアンズ オブザギャラクシー リミックス
呪われた血縁、呪われた親と子の関係。のはずなんだがなあ。
あんたたちは怒鳴ってばっかり、仲間じゃない
そうだ、仲間じゃない。家族だ。
という台詞と
あいつは父親かもしれないが親父じゃなかった。
という台詞にはしびれた。

★名探偵コナン ゼロの執行人
僕は、映画とかで、建物とかの大爆発が予期せぬタイミングで起きるとその時点で嬉しくなってしまうたちだということがわかった。
初期の相棒を観ているような、そういうテーマで、しかもいろいろなものへのリスペクト、配慮があった。いろんな正義のかたちがある。そのようなテーマを盛り込んだこういうアニメを観てそだつ小学生や中学生は幸せだ。

★トップガン
登場人物もみんないいやつだし、かっこいい、痺れるシーンもたくさんある。
なのに、いかんせん長い。「ここいらなかっただろ」ってシーンが結構あると思う。
90分くらいでよかったんじゃないの?

★ショーシャンクの空に
最初の!!!!!音楽が!!!!灯台が!!!バイオショック!!!!!
初めましての関係ではまずは契約の履行。
貸しと借りによって、信頼関係が生まれる。
自分を神と同一視する監守。フーコーのよう。監獄という反知性の世界で知性が輝く傑作。監守と囚人の交流と言うてんで、私は貝になりたい、にも似ている
想像を広げること、深めることは心の豊かさに直結する
飯の食い上げ
時代劇に、饅頭の下に小判を賄賂で差し出す場面があるけど、アメリカではパイの箱にドルを入れて差し出す。
「こんなの絵空事の刑務所の映画じゃないか」とアマゾンの感想には出てくるに違いない。そんなやつに贈る言葉はただひとつ。
「言わせておけ」
大きな謎である、誰が真犯人かということにかんして、エルビス・プレスリーのような若造が実は、真相を知っているという素晴らしい構造になってる。
太平洋の別名は、記憶のない海
充分に報いを受けた人間の話。
ティムロビンス、トップガンにもジェイコブズラダーにも出てるの?見なきゃ

★ゼロ・グラビティ
これ、半分ホラーじゃん。
非常に怖いものをみると、両手がしびれるのだが、ビリビリしっぱなしだったわ。
大気圏突入って、あんなに燃えるのか。無知だから、想定外なのか想定内なのかもわからず、怖かった。
悪い予感がする、はスターウォーズだし、「私はーー。最後の生存者です」とか、最後のサンドラ・ブロックなんてエイリアンのリプリーの格好のまんまだし。たぶんもっとオマージュあるんだろーけど、それはいいかな。
いきる価値があるか、ではなく、生きようとする意思があるか、に焦点をおいているから、抵抗なくみれた。
もと医者だから、宇宙での対処のしかたが不馴れなのだと言われればなっとくもするし。
後半は、朝に起き抜けにカーテンを閉めたまんま見たんだけど、見終わってカーテンをばっと開けたら
「ここが地球…そして足立区ね」って感慨深くなった

★アナザヘヴン
病気って言うのは、生きてる人が心配するもんなの。
といって、相手を殺す!すごい!
アマゾンで評価低めだったから、期待しないで見たけど、めっぽう面白いぞ
松葉づえついてたおっさん刑事が、死体が見つかると松葉づえをほっぽりだして走り出すなどなど、怖さと笑いがうまくミックスされてる。
再評価されるべき、邦画版の遊星からの物体X
松雪泰子がでる映画は大抵面白い。
十年くらいまえの沢尻エリカににてる。
血の涙を流すのは、CGじゃないと思うんだが、あれどうやってんのかな。
悲しい終わり、悲しい現実を突きつけられたのに、「いいもん見たなあ」って思うのは、みんながみんな、真っ直ぐ自分の意志を貫いた結果だからだよな。で、死ぬ人間も満足して死ぬし、それを看取る人間も、「誰にだって、愛と悪意がある。でも悪意に染まらない人間がいる、こいつのように」という台詞でしめる。
人間の可能性、それにつきる。

★死亡遊戯
悪人の笑顔ほど純粋
ブルース・リーの映画を初めて観たが、顔芸も笑えるとはwww
あの怪鳥音が、ディーディーコングの声のモデルなのではないかと思うくらいそっくりなんだけど、敵から殴られたりしてもあの怪鳥音をだすので、叩かれれば叩かれるほど、ブルース・リーが強くなっていってるかんじがする。
オープニングはまるでカジノロワイアル。ブルース・リー版の007のようでワクワクした
しかし、エンディングは別の映画の総集編になってるwww (あとでわかったけど、それ、ブルース・リーへの弔いだったんだろうなあ)
ヌンチャクバトル。最後らへんで、敵がヌンチャクを捨てて素手で戦おうとするのに、ブルース・リーはヌンチャクを手放さず、それで敵の首を絞めてたおす。
そんで、自分よりもいちめーとるくらいでかい敵には、とにかく足首を狙った攻撃で相手を倒れさせ、あとは金的。からだがでかいから局部という的もでかいので、逆に相手は隙だらけなんだ、ということを僕たちのようなちびたちに身をもって教えてくれているのだろう。
あと、悪いジジイが酷い死にかたをするので、その点も高評価。
最近文芸作品を書きまくっててやっと映画をみる暇と精神状態ができてよかったと思う。
ブルース・リー亡くなったあとの映画だったのか、だからあの首のところ…
「グラスワーク」はカメラの前に大きなガラスを立てて、絵を描きこむ手法です。例えば崖の前で撮影する時に優秀なマットペインターがガラスに古代遺跡の絵を描いてカメラから見ると、絵と崖が上手く合成されて、あたかも遺跡の前で撮影しているように見えるのです。古いモノクロ怪獣映画などでよく使われていますが、どこからが合成か分からないくらい上手くできているものもあります。
実際のスター俳優であったブルース・リーの葬儀のニュース映像を使ったりしているので、不思議なリアリティーがあります。

★悪魔のいけにえ
コミュニケーションの問題も含まれていると思う。絶対にわかりあえない他者、相互理解を意図的に拒絶する他者にでくわしたとき、どうすればいいのだろう。
それが、この映画の根本でもあり、根元的な恐怖をもたらすのだと思う。
グロくはない、むしろ、ニューヨーク美術館にマスターテープが保存されるだけあり、アーティスティックな構図のシーンが多い。最後の絶叫まで、ホラーではない怪奇もの(ウルトラQのケムール人など)を思い起こさせた。
ゾンビとかもそうだけど、1970年代のアメリカというのは、見くびっていた小国がどんどん栄えてきて、アメリカがアメリカとしてのアイデンティティを失い、どこへいけばいいのかわからない、心理的な去勢、無力な時代だったという側面が描き出されている。
一番びびったのは、ミイラみたいなジジイが生きているところ。
「血スッてんじゃねえよ!」と思わざるを得ない。
そのあとに気絶して、「はあ、夢か」と気がゆるんだとたん地獄のような食事の風景が現実として目の前に現れるのは相当きついし、怖いと感じた。
そして女の叫びがお、叫び眼球の、血走った眼球の度アップは40年前の映像とは思えない。血管までちゃんと浮き出てる。恐ろしい。
そしてレザーフェイスは喜びもするし泣きもする。その点で人間らしすぎて、怖くない。
むしろ、人間の笑い声のような鳴きかたをする鶏のほうが不気味である。
「あそこへいってはいかん」と忠告するポジションの親父までグルなのは、おおおと思った。
あと、男も女もおっぱいが透けてる。
上には何も着なくていいのでは?(バカの発言)
稲川淳二がパラノーマルの副音声で
「車が白い!怖いなあ」
っていっとったけど、やっとその感覚がわかった。
この映画でも惨劇が起こるのは真っ白な壁の家のなかなのだ。白い表面のなかで何が起きてるのか、それがわからないから怖さが倍増するのだと思う。

★ゾンビ
あまり思い入れなどないジャンルの映画は、とりあえずそのジャンルの原点を見とけ、ってことで見た。
ゾンビ映画はほとんどみない。興味がない。
ショーンオブザデッドとバタリアンくらいしか記憶にない。どーしてかというと、ゾンビがいっぱ出でてきて戦うんでしょ?ってしか思えないから。
じゃ、なんでスパイ映画は見るの?ってなるけど、そこに、未解決の問題の、「様式美とマンネリズムの違い」があるんだと思う。
スパイ映画はなんらかの美意識?みたいなものが働いてて、それぞれの映画に個性がでるんだけども(キングスマンならギャグ路線、ボーンシリーズならシリアス路線みたいな)、ゾンビ映画には、それぞれの個性が出づらい気がするなあ。
あきらかにベトナム戦争後の、虚無感あるアメリカ、って感じがした。
どんなに着飾っても、いい雰囲気で高級レストランの真似事をしても、結局はまわりはゾンビと暴走族だらけで、嘘の幸せの上で一日一日をむやみに、意味もなく過ごしている。
人を食うか食わないかの違いがあるだけで、主人公たちもゾンビとおなじではないか。
死者が生き返る、というあからさまな宗教的モチーフは、それが起きる原因を説明しなくてもいい。宗教は強いミームだから。受け手の脳が筋書きを想像で補完してくれるだろう。
あと、暇なとき「今から無駄なことしそうだな」って思ったら、この手の重たい映画見た方がいいなあ。そのほうが、今を噛み締められる。噛み締めながら眠れる。