・バック・トゥ・ザ・フューチャー(BTTF part1)
テンポの早さは神。テンポが早ければ悪いことなんてない。が、1つのシークエンスの中に必要最低限な情報を観ているもののなかに残るように描写しなければ、ただのはや回しの映画になってしまう。
バーバルであれ、ノンバーバルであれ、あとの場面に繋がる説明が必要
(PINE Moalのような)
ジミ・ヘンドリックスのようなエレキの演奏のあと、両親二人だけニコニコしてる、って場面でもよかったのにな。★息子への理解のような。
モチーフの勝利か。
近親相姦的なことになりかねないのを、これも人間が機械のように一定のリズムで行動するので、機械的だから生々しくなく、ベルグソンの笑いへの考察どおり、わらけてくる。
ベルグソンは人間は機械のように動くことで外見と中身の落差が笑いを産み出すと述べる。
例えば、若い母親が
酒をのむ
息子びっくり
母親がタバコをすう
息子びっくり
というようなかんじ。この一連のシークエンスは機械的で生々しくなく、面白いのである。
あとは、自己犠牲する男のモチーフ。
マーティは、自分の父親に、「自分が悪者になるから、自分を殴ってくれ」という。
それが結果的に幸福へとつながる。
また、マーティの父親も、自分の未来の妻が怯えているから、自分より背の高いマッチョに、なんとか勇気を振り絞り、ドラゴンボールばりの気合いの入れ方で拳を握りしめ、ぶん殴って勝利を手にする。
おとこたちの自己犠牲が勇気にかわって、幸せを導く。
小学生の頃、これ見たんですが、正直パート1はつまんなかった。未来でもなければすげー過去でもない。
なんか歴史の教科書の最後らへんのとこじゃん、みたいな。
デロリアンに乗って、そのときの菅朗をぶん殴りにいきたいね。
わかってんのかお前、と。
1955年と言えば、日本で「ゴジラ」が公開された翌年だぞ�
そして1985年と言えば!
日本で「ゴジラ」が公開された翌年だぞ�
ってね。
歴史の重みは、ガキにはわからんよ。
好きな台詞
「加速のスピードを考えて距離を割り出した。落雷までの風の抵抗も計算に入ってる。落雷までの時間はあと7分22秒。アラームが鳴ったら発車」
連続するトラブルのシークエンス
未来についての口論
「未来についての責任は負いたくない」
「ならくちで言うよ」
その瞬間落雷による大きな木の枝の分断(天気は神である。人間が未だ操作できない自然。だからタイミングよく天気に関する現象が起きてもまったく『不自然』ではない)
それによりケーブルのコネクターが外れる
ドクが時計台に登りケーブルを直そうとする
マーティが未来について話そうとするが、雷がなって聞こえない
時計台の時計のかねがなる。驚いたドクはマーティにあと四分しかないと言う、マーティは未来についてのことを言えぬまま、車に乗り込む
外れたケーブルのコネクターに近づこうと、少しでも足を踏み外したら死んでしまう足場をつたってドクがコネクターのほうへ移動。
マーティ、時空転移装置を起動させるが肝心のエンジンがかからない
ドク、時計台の足場が崩れて、宙ぶらりんになる。しかも、持っていたコネクターもズボンの折り返しにひっかかって、もうそろそろ下に落っこちてしまいそう。どんどん折り返しから落ちていきそうになるコネクター。(コネクターをみつめるドクの顔が冷静と緊迫のあいだ)
マーティもドクもやばい
マーティ、デロリアンの中で、出発時間を示す時計のアラームがなる。何回か試してから、頭突きをするとエンジンがかかる
ようやく、ドクがコネクターをキャッチ。そこでコネクター同士を繋げようとするも一番はじめの木の枝(最初のところが伏線)にひっかかって、コネクターが短くなってしまってつなげられない。
思いきって引っ張ると、今度は地面がわのコネクターが外れる。
時計台がわのコネクターを接続し、ドクは自分でターザンのようにケーブルを伝って地面に落下。
88マイル到達
時計の針が約束の時間へ動く
雷が時計台を直撃
ドクが地面がわのコネクターを接続。
ドク、すさまじい電流が流れるケーブルを接続、ふっとぶ
時計台からデロリアンへの1・21ジゴワットのイカヅチの伝導
消失
ここまで、何コマ漫画だよ、といわんばかりのトラブルの連続。脚本家は頭がおかしいよ、もちろんいい意味で。
ここでも、ドクが自己犠牲をしてマーティを未来へ送り返している。おとこたちの自己犠牲の戦いなのだ。
電話の相手はジョニービーグッドの作曲家のチャックベリー。
世界中の人がなんと言おうとそんなことは絶対しない!

夢の中で、ダース・ベイダーに教われる

やっぱやるわ。
世界中の人に言われても変わらないけど、いまいる世界ではない、しかも人ではない存在と思われるものに言われたらやる。
これまた面白い。
・BTTF part2
最後はto be concluded
なんだなあ。
結構最初らへんはトラウマ。未来から、変更されてしまった現在あたりは暗い。
それも、1955年から流れが一気に変わる。
あと、この作品の?な点は
「ジェニファーやアインシュタインはそのままで、まわりの時空が変わる」っていうところ。
別時空aからの存在を時空bに放置しちゃいかんだろ。いくら時空aに戻るから、と言ったって、ジェニファーは眠ってるからいいけど、アインシュタインは犬であるので動き回るから、時空が戻ったときに、「壁のなかにいる」状態になってないか心配だ。
まーでも、
「もともと時空aの存在だから、その存在が別時空bにいたとしても、別時空bそのものが時空aにもどれば、時空aの存在が時空aに存在するという完全に自然な状態に戻るから、大丈夫」
という理屈は色々使えそう。
未来のことを知りすぎると、破滅する、というキーセンテンス
なんか、あるお婆さんが、鶏の耳元でゴニョゴニョ言うと、鶏が死んでしまった。
それをみていた孫がどうして鶏が死んでしまったのか理由を聞くと
「こいつに未来のことすべてを教えた。だから生きる意味がなくなったから死んだのさ」
って言ったという話を思い出したりした。
かなりよいアイデアを思い付いたが、まあここには書きません。
・BTTF part 3
イーストウッド渓谷に笑った!
悪役はしぶとすぎるくらいが好まれるし、僕は好きだ。しぶとさは魅力のひとつだ。
王道のストーリー、と言われるが、実は裏切りがある。
それは、ドクがクララと共に暮らしたいと、マーティに打ち明ける場面である。
もうそれはデロリアンを発車する前日の夜。明日には1985に戻らなければならない。
マーティは、ドクに「科学者だろ、自分の理性はなんて言ってるんだい」と訴える。
ここでそこら辺のドラマなら、マーティとドクはいさかいを起こしたりするはずなのだが、ドクは一瞬黙って「そうだな、未来へ戻ろう」と言う。
この場面で、ドクの科学者としての矜持を感じられる。ストーリーラインの王道からそれることであえて人間性が浮き彫りになる。その場での大きな動き、事件は起こらないとしても。王道とありきたりは違うものかもしれない。
・コンサルタント
Tポイントカードをゴジラのやつにしたくて、ついでに借りただけだったけど、伏線の回収がやはりみんなが言うように丁寧だった。意外性はないけど、「うんうん、やっぱりね」という爽快感、カタルシスがあった。
テレビとかでは自閉症の障害を持つ人は被害者として描かれることが多く、特殊な能力を利用する役では見たことがない、とメイキングでもあった。
これ、もう少し一般化すると、すこし間抜けなキャラクターの登場が、実は裏では全く違う意味をなしていたりしてもよいのではないかと。面白い物語には必ず表と裏の読み方があるから。
それを肉付けするリアリティのためにディテールとなる小道具やシークエンスが必要なのだ。
「10年前の純利益は14495719ドル、9年前売り上げ増加、利益は減少。なぜ?大きな設備投資もない。原価や人件費の上昇もない。8年前は利益も売り上げも増加だが、比例してない。6年5年4年3ねん稼いでも漏れていく。その漏れはーここからだ」
「スルーイット社への送金」
「誰が承認を?」
「CFOのエド 家電の部品メーカー宛よ」
「違う、これを見ろ。」
「二番目の数字が3」
任意の数字を言うとき人は無意識に」
「パターンね」
「まだある。存在しない会社に送金。だが利益は上がってる。理屈に合わない。金はどこから?」
「在庫?」
「違う」
「払い戻しは?」
「なかった」
「残高相殺?」
「まさか」
ちょっと経営の勉強したい。
「30年前から話さなくなりデジタル機器で対話を」
「すごい金持ちだ」
「何故です」
「彼女のPCはBX32 水冷式 12コア」
「お詳しいですね、なかには多額の寄付を下さる人も。娘のPCが何か?」
「国防総省にもハッキングできる優れものだ」
「王子様、お話ししましょうか?」
ここがすごくすき。木目の壁にかこまれた部屋に、コンピューターひとつあるだけでここまで可能性が広がるとはね。
パターンを好むから非凡なほどに凡庸。
忠実にリアルなキャラクターを再現するなら、状況やストーリーラインに左右されてはならない。
JKシモンズが出ている。
異質な主人公はこのように立ち回るべきだ、と教えてくれる映画。
・アマデウス
正義を声高に叫ぶやつが嫌いだ。
彼らには、正義を成り立たせるための条件がある。
でも、その条件の絶対性が崩れたら、彼らは脆い。脆いが、死にはしない。しつこいのである。狂気にさえ走らない。
この映画で言えば、サリエリは、最初は神を拠り所として音楽を作ってきた。が、自分のことを正しい、正しくない、の二元論で判断しないモーツァルトとの出会いによって、神を否定することになる。自分の正義を成り立たせていた条件たる神が崩れていく。
自分の正義、信条を正しいと思っている者の目は、傲慢に満ちている。獣と同じだ。終わりが近い目をしている。
誓いをたてて、その誓いが正しいと思った瞬間、その誓いは弱点になってしまう。
今、ギリシャ神話のプロメテウスにはまっている。火をゼウスから盗んで人々に分け与えた神ね。
プロメテウスを岩山に打ち付ける鍛冶屋のひとりは「プロメテウスは本当に悪人なのか?」と疑問にかられながらも自分の仕事をせねばならない。そういう自己撞着がなければ、アウフヘーベンも起こり得ないから、高い次元にいけない。
しかしながら、モーツァルトは自己撞着にも、自己の正義の絶対性を訴えることにも走らない。酒をのみながら、作曲、作曲、作曲である。
彼のなかには、「自分にはこれしかない」という思いだけがあったのではないか。周りから、変な風に見られようと、「これしかできないからやる」という謙虚で純朴な音楽へのハートがあったのだとおもう。もちろん、外面的にはそうは見えないときがあったとしても。
親の幻影。自分もあのように、親が死んだあともあんな思いにかられるのかもしれない、とか、自分の人生と重なる部分が多々あった。人との交際とかについても。
周りがイデアの影しか見えなくて、自分だけイデアそのものを捉えることができても、自分は狂人でしかない。
モーツァルトが親戚への手紙でポンチポンチ言ってたのは回文にはまってたためか。
しかし、ジャケットが滅茶苦茶かっけえなあ。あれは死んだお父さんのなかに、魔笛の月の女神が写っている。
・独裁者
偉大なフィクション作家は二重人格だと言われる。
感動作ETをつくったスピルバーグはスプラッタームービーの走りでもあるジョーズもつくっている。
このように、各作品を作る上での振り幅が、または守備範囲が極端に広すぎる。
マイケルケインもそうだよね。サイダーハウスルールにも出演しときながら、オースティンパワーズにも出る。
これも、フィクション作家の振り幅をがっつり示したものではないか。
文字通り一人二役だし、喜劇とはいえ、最後の演説は、ヒトラーを彷彿とさせる話し方でもあり「自分を殺せ」というような悲劇的な結末を示唆するメッセージにも聞こえる。
(いくら反体制の態度をとっていても、自分がいざ体制側についてしかも権力をもったらそれからしがみついて離れないのが人間である、というような感じ)
日本的な笑いってなんだろう。
ある日本の城を保有する県の教育委員会が、「飲酒は品格がない」と言ったが、その城の近くの飲み屋が「品格がある人お断り」なんていう貼り紙をだしたとか。
‥‥‥そうじゃないんだよなあ、と個人的には思うわけ。答えはでないけど、それはアメリカナイズされたジョークであって、日本の城下町にふさわしい諧謔かと言われれば首をかしげてしまう。
「すいませんね、品格なんて言葉知らないもんですから」くらい言えばいいのになあ。
トワイライトゾーンの制作者が、
「この世で最も恐ろしいもの」についてこう言っていた。
「この世で最も恐ろしいものは、昨日親しかった友人が、急に他人のように白々しくなることだ」と。
逆もしかりで、この映画では為政者によってユダヤ人への対応がコロコロ変わる。これほど恐ろしいことはない。油断していたらすぐに殺されてしまうからだ。対人関係でもそうで、急に意味もわからず態度を変えられたら、もう信頼関係はなくなる。どんなに親密であっても、もちろん家族であっても、うわべだけの関係性にならざるを得なくなる。いつまた態度を変えられるか、予想がつかないからだ。相手との理解を目的とした交渉が無意味であることを思い知らされるからだ。
僕にとってはこの映画は恐ろしかった。
チャップリンに髭は剃ってもらいたくない。スウィーニートッドみたいになると思うから。

独裁者について追記
序盤の兵器はめちゃかっこいい。
おなじ思想を持つとなぜか顔や声もおなじようになってくる。
たいていそういう組織は長くは続かない

 


・花戦さ
野村萬斎のドアップカット連発の至福の時であった。
映画としてどうなん?っていうカットはあった。
どうせなら、ぽん、という音ともに開く蓮の花をみたかった。
女子供容赦なく斬り殺していく豊臣秀吉が、どうしても憎めないのは、自分自身の行いを最後の最後の最後まで自問自答する姿が見られるからだろう。その姿があれば人は感情移入するからだ。
その悩める姿を自省させることが、池坊の戦略であった。
今まで忌み嫌っていた利休の言葉を秀吉から聞き出したときの、池坊の執念。
天才というのは、天然に見えて策略を練り、超自然的なものが、絶好のタイミングで天啓をもたらしてくれる。
つまり、自分をお馬鹿に見せることも、威厳をみせることも自由自在である存在が天才なのだ。
猿という言葉
猿は軽やかで、自分の立場もわきまえず、美しい。軽やかで賢い、猿=人間こそ、それぞれに美しい。
猿之助、手がめっちゃきれいで女の子の手かと思ったら猿之助の手だった。
自分で自分のことをバカにみせることが、計算した上でできるというのは、本当に誇るべきなのだろう。
記憶を続けることが難しく、泣き出す池坊に泣いた。
苦しいです、苦行です。ふと、自分を振り替えってみても、楽しかった思い出があったはずなのに、実感が伴わない。虚しくなって、今の僕には何もない、と思う
ただ、あるものが欠けていれば、そのぶん、あるものに長けているのである。
長期記憶ができないならば、花の一時の美しさを誰よりも見いだし表現できる。
声が出さなければ、誰よりも絵がうまい、とかね。
シンゴジラの唯一の欠点は、野村萬斎の顔にもセンサーを取り付けて、ゴジラの表情にすればよかったのではないか、と思う。
(もちろん、シンゴジラの「何を考えているか表情から読み取れない生命体」という有機体に内在する無機物性が重要であることは重々承知しているけども)
そのくらい野村萬斎は表情が豊かなのだが、青年期と盛年期の瞳の輝きさえも違う。使い分けられる。
(音楽的な欠点はある。例のエヴァの音楽をそのまま持ってくるのは正直鷲巣の作曲家としての敗北では?またそれを許す監督も同罪であるように思う)
日本流のユーモアは重く、そしてかっこよい。
秀吉に立ち向かう池坊に弟子たちが渡すのは、刀のように茎が真っ直ぐ伸び、先が紫の花。
そして池坊が「しょうぶ、やな」
なんだこの重厚な掛詞‥!
芸術家集団としての、仏僧たちという見方も興味深いし、なにより、池坊が秀吉にしたことは、まさに演劇であり、説法であり、表現だった。
花にはじまり、絵が顕れ、さいごに茶器。
そして素の自分の人間らしさを締めとしてもってくる、という展開が見事なものを観させてもらったと、感じました。
長町の映画館、ガチャガチャで野村萬斎のフィギュアが手に入るんだー、と思ってよく見たら、シンゴジラだった。
芸術家が為政者に反対運動をおこなうのは結構だが、個人的にはバカっぽく見える。
相手に反対することは芸術家だろうがそーでなかろーが、誰でもできる。
シュプレヒコール的作品だって、結構簡単に作れる。
為政者という一人の人間に、いかに自分の含蓄と懐の深さを見せ、自分と同じレベルまで引き上げられるか、いかに自分の世界に引き込ませるか。
それが芸術家にできる技芸ではないのか。
河原で野垂れ死んだ亡骸に、石を積み重ねて、その間に花を挿す。ほんとに熟練したきれいさ。
・メトロポリス
本当にすべてのsci-fiの原点だった。1926年にこれが作られたのは人類の偉大なる功績のひとつとして称えられる理由がわかる。
最高の90分だった。
文字通り大衆の先頭にたって混乱へと煽動する悪女は、両手をあげて笑いながら走る走る。それに続く大群衆。
CGに逃げられないという歴史的事実が、シーン一つ一つに迫力を産み出す。
人々の表情や瞳が本当に美しい。
悪女になるためのメイクはアイシャドーを濃く塗るだけ。あとは表現力。
音楽。最近の映画の流行りの演出として、残酷な場面に美しい音楽が流れることが多いけど、キューブリックあたりがその方法を自分のものにした監督の一人。でも、原点はメトロポリスだろうなと。
主人公並の活躍をする主人公(この作品の主人公は二人いる)
がピンチに陥ったとき、美しい音楽が一層美しくなる。おどろおどろしい音楽とかにもできたはずなのに、そうしている。安易な演出に逃げなかったといえるだろう。
少数のものの喜びは多数のものの呪いでした
この世界の(あるいは労働者と資本家をつなぐ)調停者の降臨を予感し、訴える女。
最後に大勢の子供たちを救うことになるのだが、たぶんこれは、彼女自身が破滅を防ぎ、世界の調和をもたらすという意味での調停者だった、ということではないのだろうか。
予言者から調停者というバランスをもたらすものへの変貌。
これ、結構良いテーマ。ユングの元型論的なイメージは多々あるが、道化が預言者や、勇者となったり、死が大母的なイメージに変わったりするとき、人は絶望したり、言い様のない感動を得たりする。そこにドラマが生まれるのだとおもう。古今東西、キャラクターが変わる瞬間がグッとくるのは、こういう作用が働いているからかもしれない。
・エデンの東
映画好きなのに、ジェームズ・ディーンの作品も観たことがないのはちょっとな、とおもって借りたけど、よかった。
独自の見解を述べる。
これは作品当時のアメリカの不安を如実に表したものなのだと思う。世界恐慌から十数年しかたっていないWW2の時代は、バブル崩壊後の日本の停滞感・無気力感・不安感と通ずるものがある。
持つ者が一転して持たざる者に、その逆もしかり。
優位に立っていたものがあっという間に頽落する、逆もしかり。
不安の浮遊感の中で生きる肉体のリアルさが、ジェームズ・ディーンの魅力の一つなんだろう。
髪型も、今でもああいう髪型の人いるもんね。
水谷豊の「青春の殺人者」を想起させた。行ったり来たり、やったりやらなかったりをずーっと繰り返して
放浪しようとするあのかんじ。
入れ子構造。WW2のドイツはえてして悪として描かれがちなんだけど、この作品ではそうじゃない。
ドイツという敵がアメリカの前に立ちふさがっていて、でも、アメリカの中には当然ドイツ人がいて、
世界を戦うアメリカの中で、アメリカと争わなければならないドイツ人、という敵味方入り乱れたマトリョーシカのような構造が、作品のやもするとプロパガンダに陥りそうな面を相対化している。
もし、今の日本で戦争を始めるということになったら、戦争礼賛主義には陥らないだろう。
そのかわり、自滅するだろう。自律的な隣組体制が自然に作られ、別のチームは仮想敵だといわんばかりに攻撃しあうのではないかな。そして、この映画のようなドイツ人とアメリカ人を仲介する保安官のような存在が、文系科目を軽視するこの国の、ましてやそれぞれの町にどれくらいいるだろうか。
愛を役に立つか役に立たないかどうか、損得で考えざるを得なくなる状況もありうるもしれない。
・・・てか、答え合わせをしたらWW1じゃないかwwwwwww
普通に西部劇風なんだからそうとらえて当然のはずだったのに、なんでWW2の前後だと思って最後まで見てたんだろうか。物語上の時代は、WW1だけど、なんだろう。この映画全体に流れる、生きていく不安のようなものは。
会話とか言いあいで、いつの間にか一時間過ぎているという、不思議な熱さがある映画でもある。
善悪の判断がしにくい、ということ。どちらも正しいようで、間違っているようで、という状態。善悪の彼岸。
清く正しいのはいいことだよ、でも、それだけなのは、本当の人間なの?汚れたり、間違ったりしたら、だめなの?認めてくれないの?
そういう話でもある。
それに関しては、漂流教室のことを書いた文章を自分のために貼り付けておく
楳図かずお大好き、といっておきながら、「漂流教室」をやっと全巻読んだ。
もう、創作の、ストーリーラインの約束事が成り立たない、善悪の彼岸の世界だと思う。
ふつーのドラマや映画なら、戦争や殺し屋などの以外の理由で殺人を犯したものは、たとえ主人公であっても、99%は罰を受ける。
(アメリカン・サイコなどは例外)
特に、学生が殺人を犯したら、もう絶対にひどい結末になる。
そういう決まりごと、殺人によって生まれる文字通りの死亡フラグが物語には必ずといっていいほど内在している。
しかしながら、主人公も、周りの登場人物も全員が小学生であるにもかかわらず、
(大人たちはほとんど皆瞬殺されるか気が狂って死ぬ)
拷問しあい、殺し合い、人肉を喰らうところまでいきつく。
殺しあわなければならない、傷つけあわなければならない、この状況にいたら、相手を殺しても誰も責めない、殺人をせめられない、そういう世界になっていく。
映画「震える舌」で、破傷風にかかった娘が暴れ泣き叫ぶのを見ながら、看病を続け、限界を越えた疲労を背負い、目の下が真っ黒になった母が「生まなきゃよかった」と呟くのを誰もせめられないのと同じだ
何かうまくいくと思ったら、全然だめで、そのたびに何人ものクラスメイトが崖から落ち、化け物に頭から食われ、人ではないものになっていく。
それでも、ひとつひとつ積み重ねていたもの、自分でも崩れ去ったと思っていた希望や未来が、
「どうして自分だけこんな場所にきてしまったのだろう」
という思いから
「僕たちは選ばれたんだ」
ということばをうみだす。
楳図作品にはこーゆーパラダイムシフトが多い。
洗礼、おろち、などがいい例だが、あかんぼう少女はそれをたんてきに表したものだとおもう。
化け物のような少女タマミは、美しい妹を凄惨な恐怖に追い詰める。
それは、妹の美しさへの嫉妬であり、妹のように普通にいきられない自分の辛さをぶつけていた。タマミは自分と妹の人生をずっと比べていた。
タマミは妹をギロチンにかけて言う。
「ほんとうは、おまえがわたしをいじめていたんだよ」
これ以上のパラダイムシフトが漂流教室ではガンガン起こる。
愛憎、人肉嗜好、狂気、肉体と精神の醜悪、それらがこれでもかと押し寄せてくるなかで、最後の最後にページをめくる手が止まるほど、心が揺さぶられる。
日本のゴアストーリーはフィクションのルールに縛られて昇華も哲学もない安っぽいものばかり。そんなことを薄々でも感じているならば、楳図作品は強くおすすめする。
父親から解離していく結末ならよかったのに、と思うが、これは当時のアメリカの理想でありファンタジーなのだろう。
リアルなアメリカであれば年老いた親など捨てるのが本来のリアルな姿だったのだろう。
でも僕はリアルが見たかった。

 

なんでアメコミドンパチ映画が多いかというと、HULUで期間限定公開だったからです。

★トランスフォーマー
すっげえ、と思ったのは、HULUで、英語字幕対応するものもあるということをこの作品で知った。
10年前か。当時のCMでは、トランスフォーマーは人類の敵で、善玉のやつは出てこないって思ってた。ほんと「アメリカ映画!!」って感じ。
ウルトロンより、見てて元気はでる。
ぜんぜん期待してなかったけど、ある部分で非常に参考になった。
フィエスタかわいくないか?
展開がクソ早くていい。続編は見ません。この手の映画は国防長官が必ずでるよなあ。NSAってなに??

主人公のバカガキが途中で死んでもたぶんだれも悲しまない映画。
ネット経由での情報漏洩を防ぐためにモールス信号などの短波無線を使う手はインデペンデンスデイですでにやってるよ。
アベンジャーズといい、「キューブ」好きだなおい。ドラクエのオーブといい、イデア的なオブジェクトが不思議な力を持つ、みたいな発想は、手垢が付いてるな。
Were you masturbating?
ことごとく、ギャグは滑る。笑えるのはテンションの高さ。

 

★キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アヴェンジャー
トビージョーンズは163センチ。それでも俺よりでけーよ!!
こんな悲しいおわりかたあるかよ・・・・約束があって何年も眠るのはつらい・・・
滅茶苦茶大勢の敵に一人が囲まれたら、あきらめて捕まる展開は見飽きたな。まんなかの一人が消えたら、めちゃくちゃ大勢の敵が攻撃した瞬間に全員死ぬんだけど。
敵陣に潜入したら、敵の服を着ようよ。
スチームパンクに必要なのは多すぎるパイプと錆だな
Let's hear for OOO OOOを称えよう
Why me? 何故僕なんですか?
チュートン神話ってなに??
出てくる奴らのサスペンダーがボタン式なのが大変好感をもてます。
マシンガンババアかっけえ
博士的ポジションはすぐしぬ。アイアンマンとかtdkrとか。bttfもか。
昔の車って、まるっこいのに何でかっこいいんだろう。
マーヴェルの世界ではアスガルドもドイツも英語なんだなあ・・・
ヒトラー暗殺には42の計画があったらしい。金正恩もたぶん、暗殺計画滅茶苦茶あるんだろうな。誰も外に漏らすことができない状態だもんな。脱北者も、言うメリットがないもんな。後継者=同士だもん。迂闊に情報漏らすデメリットの法が大きい。
国債のばめんの女の人の衣装かわいい

★マイティ・ソー
強引なシールドが敵にやられているのはちょっと爽快。
敵との戦い→主人公は敵を許す・和解を申し込む→敵はその受け入れを却下→主人公の反撃または自然的な力によって、敵が自滅する
ディズニーとかでもよくあるパターン。美女と野獣とかでもあるよね。主人公が罪を犯すのはシナリオ上よくないから。
浅野忠信・・・
ムジョルニアなど、本当にやばいも=未知のものは、迂闊に近づいて調べたりしない。一定の距離を置いて調べるのが賢いやり方。
ご協力ありがとうございます。
=Thank you for cooperation.
「ハンマーのパワーはふさわしきものが手に入れるであろう」
投げ捨てたら元の持ち主に戻った、戻るのが運命でした。
侮辱されたらやり返してもいい感じ。許される感じ。作劇のルールのひとつ。
ファンタジーっぽい映画はあまり好きではない。なぜならルールがないから。作者のいいかんじに物語のルールができちゃうから。SFなのかファンタジーなのか。でもまあ、どっちでもいいか。おもしろければ。でも、物語がおもしろくなるのは、なに頭の制約があるからではないのか??
なんで、ファンタジーはシェイクスピア的な言い回しと親和性があるのだろう。
俳優たちは、たぶん滅茶苦茶楽しんで作ってる。それがわかる。まじめな場面でも。
聖俗がはっきりわかれていて、メリハリがいい。

★インクレディブル・ハルク
ティム・ロス、比較的身長が低い。170センチ。でけーよばーーか。
「海の上のピアニスト」の人なんだ。アランカミングににている。
ハルクスマッシュ!! なんで必殺技言った!!
必殺技を叫ぶ理由付けみたいあったらいいよね
師匠に「戦って、技を繰り出して敵をしとめようとするなら、技の名前を叫ぶのじゃ。その瞬間、技は技として名前が付く。そーすれば常ならぬ力を発揮するであろう」
「そんな恥ずかしいこと絶対しない」
みたいな。
「いや、高度を保て」シリアスなオバカテンションは、最高です。好きです。どういう法則で生まれるのかなあ。
アボミネーションはバズーカを自分の体にぶつけて消火します
将軍ポンコツすぎるっw
丹田呼吸 急に攻撃される訓練
心拍数をはかる時計。
自分からでる血の一滴でもすぐに感じ取れる
傷をセメダインで修復しようとするのいいね
スタンリーがハルクの血を飲んで死んじゃったみたい
序盤てかオープニングの数秒で、ブルースバナーがガンマ線を浴びてハルクになったことが示唆される。新しいスパイダーマンでも、ベンおじさんのくだりはこれくらいはしょってもいいんじゃないかなとおもう。
ハルク、目に銃弾当たってもダメージないのかな。目は守んないと。
リアルな、現実にある戦車や兵器がたくさん出てきた後に、超音波兵器みたいな実際なさそうな兵器が出てくると、「おお」って思う。びっくりする。
You are the man.って「最高だ」って意味らしいので誰かに使いたい。
トラウマのフラッシュバックは、機関銃の銃口とシャワーの蛇口が同じ形だと言うだけでも起こり得るんだろう。同じ形というだけでフラッシュバックが起こり得る
螺旋階段は飛び移るもの。
省略の威力。ティムロスが、前進の骨が砕けていたはずなのに次の登場では、完全復活している。異様な迫力がある。

★マイティ・ソー ダークワールド
浅野忠信はたぶんシナリオ上の使い道が思いつかなくてはずされたパターンだ・・・
ファンタジーで、ダークマターとかエーテルとか生命「エネルギー」とか理系的な用語使わないでほしいよね。
祥瑞とか使ってほしいなあ。てか、神々なのに寿命あるんだ・・・
9代目ドクターが闇落ちしちゃったよ。かといって感慨深さも特になし。
星が一直線になるとそれぞれの世界の境界が曖昧になるってのはよく考えたな。そういう天文学的な確率の現象って、映画では必ずといっていいほど悪いことの前兆だよね。これを、戦いが終わった後「ああきれいだな・・・」で終わるような展開になればいいのにな。
予算が潤沢にある戦隊ものをみているようだった。
あと、ナタリーポートマンもいるせいか、SWのファントムメナスを見てる感じ。なじみのキャラは一人もいないけど・・・
わけあって、善人のキャラクターが殺されることについて考えてる。
ソーの母ちゃんが死ぬんだけど、そこで起こり得る心的現象は
悲しい場面だなって感じを出せる
善人の死後、ストーリーが重厚感あるものになる
または、善人の死直後に笑わせる専用のキャラクター(コミックリリーフ)が現れて、ストーリーが進行する。(僕はこっちのほうが好きだ。なんかまじめな部分は差し挟まない方がいい。明るい方向へ展開したらまじめなパートに戻すとか)
その善人の死自体が何らかの伏線になるととてもよい。死体に何かがかかれてあったりしたらいいかも。
あと、善人の死によって悪の深淵さ、怖さが出てくるなおよい。なに考えてるかわからない、火力が強すぎるとか。
キャップが出てきた!!ww
「計算より速く始まったな」
ストーンヘンジで全裸になろう。
パンツ姿のじじいが、I will wear the pants.って言うの意味分かるけど意味わかんないww
ロンドンの卵形ビルは30セント・メリー・アクス。そこの場面おもしろかった。わああ・・・
地下鉄乗るのもおとぼけな戦い方で、全体で見たらじゃまだけどちょっとだけよかったな。

★キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー
兵舎付近に弾薬保存しないから弾薬庫は兵舎付近にはふつうないらしいです。
シールドの戦闘機が、ターミネーターの戦闘機とデザインそっくり。
ダークナイトのラウがでてる!?チン・ハン シンガポールの俳優
普通に見入ってしまったから、あんまり感想を書けない。
とてもおもしろかった・・・?

★ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー
いま、1980年代の音楽を映画で使うのはやってるね
で、1980年代には、bttfで1950年代へ戻ると。
映画の中の音楽は、30年前のものがつかわれるんだね
だから、2040年くらいになったら、きゃりーぱみゅぱみゅとか電波ぐみとか再ブレイクするかもよ。
えぐい人体破壊してるはずなんだけど、CGのきれいさで生々しさがなくなっている。
やっぱ、カウンター技使える奴はかっこいいな。この主人公、なにを特性として持っているかといったら、交渉と逃げがうまい、ただそれだけなんだよなあ。そこに優しさがあるだけでこんなに主人公になれるとは。
どっかで自己犠牲をしてしまえば、やっぱ主人公なんだろうなあ。
自己犠牲を序盤に一回、終盤に一回自己犠牲。それが一番理想的じゃね?
キャプテンアメリカも、序盤に人体実験 終盤氷河につっこむ
ソーもガーディアンズも、マーヴェルの宇宙を舞台にした映画はあんまり個人的にはまらないなあ。宇宙が舞台だから?ってのは理由にならない。だって、スターウォーズはおもしろいもんね。
一番の理由は、なんか、「制約」がない印象を受けるから。SWには、ライトセーバーで戦わなきゃいけないとか、修行しなくちゃいけないとか、そーゆー暗黙のお約束があったけど。
「俺の仲間を悪く言うな」 ワンピースってこんなかんじなんでしょ?
滑りっぱなしのギャグの連続。

★アヴェンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン
世界平和の実現のために、ネットを用いた全世界的な監視システム
をつくろうってのは、ウィンターソルジャーとかでも同じプロップが使われてたから、市民権を得た古びた考えなんだろう。
こいつらいっつも仲間割れ・・・
全裸ストーンヘッジおじさんがめちゃ渋くなってるのが好感。
スカーレットウィッチ、シビルウォーでキャプテンアメリカの心をマインドコントロールすればよかったのでは・・・?
胸が大きければ大きいほど、映画はつまらなくなる。
アイアンマン、ソー、ヴィジョンでウルトロンにビームを撃つのは、胸アツだったな。

★アントマン
敵が、自分の気に入らない奴を縮小して肉片にしてトイレに流すってのはいいね。
どうやって主人公がヒーローになるか。
暗くて、みじめで、どうしようもない位の人間が、「ばかげたアイデア」
しかすがりつくものがない、選択肢がない、という流れなら、現実感も、カタルシスも両方得られる。
金がない、とか社会的身分を失ったとか、誘拐されて、「ばかげた」場所につれてこられたとか。
伝聞の伝聞。先住民族の話は、「私がこう思ったとき、私の目の前の虎はこう思った。ああ、こいつに殺されるかもしれない。そしたら太陽がギラン、と俺をにらむように照りつけて・・・」と一般的な話をしない。彼らの記憶は個別具体的なものだそうで。
そこに文明人が「要するに、虎を殺した」と結果だけいう。
そこに文明と未開の地の相違がある。
カーボンデール金庫1910年。タイタニックに使われたのと同じ
もの。歴史的な事件に関わりのある、みんながしらない小道具が出てくると、重厚な現実感がある。その歴史の物語が脳裏をかすめて、観客をミスリードしたり、なにかしらの促進要因になる。
でも、その金庫の中に超デジタルな金庫があったらおもしろいね。
入れ子構造は僕はおもいつかないので、そこらへん鍛える必要がある。
やっぱ、男は特殊スーツ見たら着たくなるよな!!
アリの造形が、光沢を抑えたためか、無機質感がでて、気持ち悪くない。
トランスフォーマーのメタル生物のよう。
マインドコントロールは、脳の中枢を侵すような仕組みがなあ。
敵のサスペンダーが、ボタン式なのは非常によい!
最後の、原子間の、量子の世界の大きさになったときに、「インフィニティストーン」がなにかしらで絡んできたら、えええってなったと思う。
でかけりゃいいってもんじゃないんだよ。そこがよくわかってると思う。
こっちのサイズがデカすぎても、標的が小さすぎてはなんの意味もないから、相手と同じサイズに縮小する。みたいなのは至極まっとうな描写だ。