・ゴジラ(1954)
なによりもまず衝撃なのは、敗戦からたった9年で、ここまでのものを作るか、ということ。あとネオンまみれな東京という現実と、それをミニチュアにしてしまう根性。
それにしても、この恐ろしい怪物が、20年後には惑星Xで「シェー」をするとはとうてい思えない。なんでも身近で、ひょうきんなものになってしまう。日本特有の「萌え化」現象なきがする。
和の国特有かもしれない。相容れないものが最終的に一つの形に止揚するというのは。へーゲルの考えって日本人は昔から実践していたのではないか。それが商業的に結びつくと、顕著な止揚が見られるのではないか。
あと、「間」「タメ」の問題。ゴジラがはじめて放射能を吐き出すとき、ほとんど、いきなり、まるで放射能を吐いていた途中から撮影したように、なんのタメも、「前兆」もなく発射する。
ゴジラ自体が「前兆の塊」というべき存在なのに。
そう考えると「007スペクター」のCMで、最後に弾痕からひびが入ってスペクターの組織のマークになるあの数秒間のゆったりした時間、つまりタメ、のようなものは、なかなか日本映画には見られない。
舞台ではそういうことできるね、簡単に。でもなぜか、「タメ」に耐えられる空間や、肉体が珍しいので、あまり見られないようなきがする。
「タメ」は、時間と空間をたっぷり、贅沢に使う方法だ。
それは黄金比なんか関係ない。映像や舞台では、数値化できない充実した時空を大事にしたい。
なんでも、テンポよく、テンポよく、が重視されているけど、どっかで「タメ」なきゃいけない。「タメ」るベストタイミングは、その作品が持つ、潜在的認知度にもかなり左右されるけど、どれにもいえることは
「重大な秘密に迫る前」は、一秒が十秒に感じるくらい、「タメ」ていいと思う。あと、誰かが何か重大な決心をするときとか。
最後は、ミクロとマクロ。ゴジラ登場以外は、ぶっちゃけ人々の逃亡の場面が一番インパクトもあるし、カット数も多い。
小さな存在の一つ一つの生活のディテールがあるからこそ、巨大な存在の嘘くささが、やっぱり消える。陳腐な意見だけど、やっぱそうおもった。
ゴジラ(1954)において、脳汁が出まくるほど、【ドチャクソ】心がうち震えたのは、
「原爆・水爆などより、オキシジェンデストロイヤーの方が何倍も恐ろしい」
という台詞。
現実の恐怖をさらに上回る恐怖の提示が、想像力の地平線、深淵の陥穽とも捉えられるし、我々が対峙すべき、絶対的と思われていた現実の恐怖を相対化して冷静に見つめる可能性も提示しているともとれる。
@akiLa9000 現実の恐怖よりも恐ろしいものを提示し感情を沸き起こすことができるのは、フィクションだけ。
@akiLa9000
フィクション、創作の役割で、現実よりも恐ろしいものを出せるということを忘れて、芸術家の人たちのなかで、放射能がどうとか、トランプがどうとか、安倍さんがどうとか、中国、韓国がどうのとか、それしか言わないような人もいる。

@akiLa9000 その状況にずっと違和感を持っていたのは、上記のようなことをずーっと、ずっと思ってたからでした。

・ゴジラの逆襲
非リアはすぐ死ぬ。あと、大阪人はゴジラに街を踏みつぶされたあとでも冗談を言い合える。完全なステレオタイプ的見方だけど。
そんなにおもしろくはない!WWW
そんだけだな。うん、つまらんかった。

・キングコング対ゴジラ
若林映子と、浜美枝がでている。007は二度死ぬのボンドガールに抜擢されることになる。
オープニングが、ティムバートンの映画のようなコーラスが入っており、それだけで時代を20年も30年も先取りしているような、そんな感覚を受ける。
チェレンコフ光を知らない船長が指揮している原子力潜水艦って・・・そりゃゴジラにやられるわな。
「ハガネより強く絹よりもしなやか」って、強すぎだろ!!しなやかすぎだろ!!スパイダーマンか!!だけど最高!気に入った!!
なにしろ特撮がハンパない。キングコングを巨大筏で運ぶとき、コングが目覚めると、手前が船のデッキで奥がコングの筏が浮かぶ海のカットなんて、切れ目が見えないくらい繊細な合成をしているし、東北本線のセットもリアル。人の影が映っていた。そして、自衛隊が河などに白熱灯みたいなのを投げ込み、河から火が上がる場面は、一瞬ほんとに河に油でも差したのかと思うくらい、特撮技術が見事だった。
62KーG

・モスラ対ゴジラ
自然のちから。ほとんどの神話にはルールがあって、英雄に動物=自然が味方すれば、その英雄は絶対に死なない、不幸な結末にはならない。
インファント島と日本人達の人間同士の争いを解決へと導くのが、聖獣たるモスラ。この時点で、神話的には決着が付いている。
ゴジラとモスラの戦いは、はじめ、自然の猛威同士の戦いだと感じていて、見ててなんか新鮮な違和感を感じていたが、ゴジラは純粋な自然ではない。ゴジラの中には水爆がある。人間の罪がある。モスラの幼虫の糸でぐるぐる巻きにされるゴジラは、まるで、聖骸布を巻き付けられたようにも感じられた。繋げる意志のある命はすでに永遠を勝ち取っている

・地球最大の決戦
こっちが先だった!!怪獣大戦争からみちゃった!!
天本英世、志村喬、平田昭彦がでてる!!
インファントの双子がノリノリでテレビ番組に出演しちゃうくらい、態度を軟化させてるのが、おもしろいやら、かなしいやら。
モスラ幼虫の目が、今回は赤になっているので、最初から何かにぶちぎれてるのかと思ったらそうではなかった。が、2匹いた幼虫のうち、1匹が死んでしまったことをさらりと話しちゃうところとか、ちょっと変わりすぎじゃね?キングギドラの命を絶つことはできないが、追放はできる。たぶん、「怪獣総進撃」まで引っ張る予定がこの時点であったのかもしれない。

・怪獣大戦争
フールーで、モスゴジのあとに自動再生されたし、X星の話だから、てっきりこれがキングギドラ初登場の映画だと思ってた。
しかし、20年前には敵国だった欧米人と日本人が、
「グレン、変な日本人とつきあってんじゃないの?」
「いちいち確かめてたら、恋はできんさ」
なんて冗談を言い合ったりしちゃってさ。戦後の歴史感覚を味わうには、映画が一番だね。なーーーんの役にも立たないけどさ。
水野久美、エロくてかっこいい。
でも、量産型とは思わなかった。何人も同じ顔の奴らが出てくると、結構僕はびっくりするのだな、とゆーこともわかった。
「あなたは私と結婚しなければならないの!!」っていわれてみたい!っww

・南海の大決戦
途中眠ってしまった。最初の「3日間耐久ダンス大会」なんていうので、期待大だったし、アマゾンでも結構評価が高かったので楽しみだったけど、うーん、ってかんじだった。
水野久美がインファントの民。日本語分かる。このころの日本人達は、国籍不明の人物に出くわすときは最初にカタコトの英語を話すが、「言葉、わかる」っていわれると拍子抜けして結構安心してしまう。

・怪獣島の決戦 ゴジラの息子
まず、意外と人間ドラマがおもしろい。ここらへんのゴジラは正直007でいえば、ロジャームーアボンドといったところ。
合成がとても丁寧。
「~の影響による反転現象」ってのは結構使える。
貝殻を器に薬を飲むのはいいアイデア
ゴジラとミニラの場面は、動物の親子のYOUTUBEをみているようだ
(怪獣総進撃は以前みたので割愛)

・ゴジラ・ミニラ・ガバラオール怪獣大進撃
いじめられっこの人間が主役。でも、ひきこもったり、命に関わるようなことはならない。
それは、根性だとか、そーゆー観念で強く生きてるんじゃなくて心を許してはなせる、赤の他人の存在がいるからだと思う。
「地域社会の連携強化」ではなくて「変だけどいいひと」が生きやすくならないと、子供も生きやすくならないと思う。
これは1969年だから、高度経済成長期まっただ中。アルバイトで生計が立てられた時代である。したがって、変人が生きやすかったのは、日本における前衛芸術の黎明期であったことからもわかる。
その他人は、社会からのはずレモのでなければ、子供の心の氷は溶けない。一般的な社会通念を教えられないが、哲学や真理を言える、何にもいわずに一緒にいてくれる、そういうエキセントリックな隣人が必要なのだ。そう、天本英世のような・・・。おもちゃコンサルタントってなんなんだwww

「いい大人」は飽和状態だから、蒸留して寝かせればいい。

自分の父親が巨大エビと戦ってるのを見て「やってるやってるwwww」と野次馬してるミニラって・・・・
巨大化すると股間が度アップになるミニラって・・
お前以前熱戦吐けたやろ・・・
ガバラの攻撃えぐい。ミニラを感電させた状態で殴る。
そして息子をいじめた怪獣にシリーズ最高の俊敏性で殴蹴するゴジラ・・・

・ゴジラ対へドラ
ゴジラが、「人間の罪の化身」から「分身」になった。
へドラの攻撃で、ヘドロの海にまみれながら放射能を吐かざるをえないゴジラ、片目をつぶされ、片腕も溶かされたゴジラ。
人間とともに苦しむ存在になった。
子役がへた。合成も、キングコングの時とかのほうが繊細な作りだったような。
でも、最後らへんの怒濤の展開は、緩急があってよかった。
へドラの中にあるコア?のようなものを、弱ったへドラの中から引っ張り出し、ゴジラがその手の中で放射能と自衛隊の力で乾燥させるんだけど、かさかさぱらぱらになったコアが塵になっても、ゴジラのたたずみが無音で映し出されていたり、人間を睨む間があったり、最後にはへドラの内蔵をかきだすけれど、ゴジラの、気が狂ったような怒りが、むかし能でみた「葵上」の六条御息所の生き霊のようにもおもわれた。
シン・ゴジラで示唆された「巨大不明生物は、今後の進化によっては飛行する可能性もある」ってこのことだったのか・・・

・ゴジラ対ガイガン 地球攻撃命令
飛ぶゴジラの次は、しゃべるゴジラ。キングギドラの造形が丁寧。
人間模様はどうでもいい。爆発シーンがとても迫力がある。爆破の場面だけ他の映画じゃねーのかってくらい。
影がゴキブリ。生き物の本性は影に宿る。
この時代の描写として近未来的な研究室やコックピットは、スターウォーズの旧3部作もだけどコンソールに文字情報がほとんどない。(今は、かってに作られた文字とかが浮かび上がる場面はしょっちゅうある)
スイッチを押したり、ランプをさわったりはするが、文字を打ち込むってあまりない。・・・なんでなんだろうな。
過去映像の使い回しで、夜になったり昼になったりしたのは残念。
東京23区内にも時差があるのかと思うほどだった。
そしてゴジラの血は赤い

・ゴジラ対メガロ
適当に作ったものは、適当にしか享受されない!!!!
でも、当時の映画館のことを考えたら、この「間延び」はロジャー・ムーア007と同じような匂いを感じる。
つまり、当時の映画鑑賞方法は、シアターを出入りしたり、しゃべりながら観るものが映画だったんじゃないかと。で、画面から眼をはずしてもストーリーが追えるようにあえて、間延びした展開・カメラワークになっている。しかも子供向けだからなおさら・・・。みたいなことを妄想したが、ありえませんね。
海底王国の守護獣たるメガロは、なんで日本の民間発明家がつくった般若の面を着けたウルトラマンみたいなロボットに案内されないと、ゴジラの元へたどり着けないのか、最後まで分からずじまいで終了だった。
それでも笑ったのは、ジェットジャガーが飛ぼうとした瞬間にメガロの炎でジャガーの背中が燃えるのが唐突すぎて、リアクション芸人みたいで、そこだけ声だして笑った。
ダム破壊シーン、爆破場面などはとってもいい。

・ゴジラ対メカゴジラ
爆発の中野。これにつきる。コンビナート爆破シーンは、YOUTUBEで見た海外の花火工場の爆破事故とほとんど同じ。
サーバルちゃんみたいなキングシーサー。なぜ、琉球古来の神の癖に「キング」という英単語がついているのだろうか。
血塗れのゴジラが、シン・ゴジラと同じような造詣を思わせる。
大した話ではないのだが、ものすごく脚本が洗練されているように感じるのを「メガロ効果」と名付けたいと思う!
平田昭彦ががっつり登場してくれるのがうれしかった。
クソみたいなエンディング曲もなく、ストレスも眠気もなく観ることができた。
光線同士のぶつかり合いとか、戦いがものすごく熱い。
そして、メカゴジラの格納庫ね。あれがいい。人の小ささとの対比もすごくはっきりしていたし、あのシーンがないとエヴァとかも生まれてないのでは?とにかく、昭和ゴジラの中で、初代ゴジラの次に傑作だと思う。

・メカゴジラの逆襲
恐龍という漢字の当て方かっこいい
「私たちは、地球人を宇宙人に売り渡すのね。
キングギドラや(わかる)
ラドンや(ん?)
マンダのように(ファッ!?)」
操られる者達の苦しみ。自分の中の葛藤。アンドロイドもそうだし、博士も「自分は操られていない」といっておきながら、復讐に支配された操り人形になっている。初代ゴジラへのオマージュが散見される。逃げまどう人々、地下に続く実験室。そこに平田昭彦。
中野爆発は健在。
お母さんは、偏見と侮蔑の中で苦しみ抜いて死んでいったんだ
とか
なにもかも遅すぎたのだ、矢は放たれた
などの重くソリッドな台詞もあり、メガロやガイガンが夢のよう。
007に影響された部分もあると見えて、メカゴジラの基地や、爆破の逃避行などはまさにそれ。
怪獣という姿に仮託して、人間というものを描いているようなきがする。
人間も、怪獣も操られている。そんななかで、操られていないのは・・・生き残るのは・・・という暗黙のメッセージなのではないか。
それにしても、自分を信じた者だけが生き残るのは、そういう信念がこの時代には許されていたからではないのか。自分が自分を信じることさえ許されない今と比べたら、逆になんて甘っちょろい時代なんだろうか、とも思える。

 

・ゴジラ(1984)
よく、中途半端とか、惜しい、とか、東映の言いなりになっただけ、とか言われるけど、これが中途半端とかいうやつらは、メガロを観てないな。
あと、最後の変な歌も大好きなんだよね・・・。
どんだけ中途半端なのかと思ってたけど、けっこうやるじゃん!
もちろん、急に夜になったり朝になったりしてるし、あきらかにゴジラの足と人間の大きさの比較がおかしい部分もあるけど、それでもやっぱ真剣に作った感はわかる。メガロと比べてはいけない。
僕が好きなのは「論理の超越」
つまり、序盤から中盤にかけて、かなりリアルな科学的、外交的、政治的情報がバンバン飛び交うのだが、いきなり
「スーパーX」という秘密兵器が現れてくる。リアリズムという文脈を無視した存在が、飛び込んでくる。そういうものは好き。
怪獣映画に限らず、どんなジャンルにでも、それがフィクションならば、「フィクションの中で構築された現実」という文脈を無視したものが出現するのは非難されるものではないと思う。
あと、1954年のゴジラの写真が写る場面は最高だった。前作主人公。
山の向こうからゴジラのにらみつけるような瞳が現れるのは、メカゴジラの逆襲?
新幹線を握りつぶすのは、初代ゴジラ?
あと、メーサー出てきたし、さまざまなオマージュが満載。
そして、ゴジラという半自然半原罪の存在を、煉獄たる噴火口へ落とす結末。
人間とゴジラが重なる。人間も 半自然半原罪だから。(僕は有霊魂無神論者なので、キリスト教徒でもありません。生まれた時点で人間はだれかを傷つけるのは当たり前)
だから、ゴジラを噴火口という自然に、人工的な爆破で招き入れるのは、至極当然の結果なんだけれども、
半自然半原罪の存在(ゴジラも人も)は、自然に包まれる宿命なのだろうな、と思った。
最近、太平洋側の海へ行った。裸足を波にひたしてきた。とても冷たく、声が出た。なにより、引き波の強さが怖かった。
あんなに冷たく怖いものが、あんなにきれいな青だとは。いまだに、津波の瞬間の映像を直視できない自分がいる。
いろいろなことを想起させる。
つか、PCで書くとこんなに長くなるもんなんだな。
・ゴジラVSビオランテ
抗核バクテリア、サボテンと小麦の遺伝子融合生命体など、もうこの世界では開発済みらしく、それがリアリティを損ねるかというと全くそうではない。「そういうのはもう昔からありますよ」っていう作品中の態度それ自体がリアリティ。
我々の知っている知識の次元以上の世界ではなにもかも起こりうる。
鈴木京香がスーパーX2のオペレーションしてる‼
VSシリーズは、ゴジラが敵か味方かわからない。そこがいい。僕に言わせれば、ゴジラが善悪両方の側面を持ち、なおかつ善悪を持たない存在であるところがたまらなくよい。
ゴジラという半自然半人間の存在。自然は善悪の基準を持たないが、人間は善悪の基準を持っている。
ゴジラはその両方を背負って存在している。
ま、そんな難しい話は置いといて、何よりも熱いのは
「みんなが見た夢の絵は描けたかなー?」
「はーーーい!!(全員ゴジラの絵)」
デーーーーンデンデンデンデンデーーーーーーン!!!
このシーンねwwww 「くるぞ・・・くるぞ・・・きたあああ」ってかんじだった。超能力ネタをやる時はぜひパクらせていただきたいww
醜悪な風貌の中に美しい魂がある。ビオランテの中の人は科捜研の女。
反対のケーズは、腐るほど、はいて捨てるほどありますね。告白、渇き、ダークナイトライジング、など。
きれいな風貌のやつが実は醜い心、というシチュエーションは書きやすいんだろなあ。
ビオランテの魅力とはまさにそれ。見た目と中身のギャップ。しかも、中身の方が美しいというね。
あと、迷セリフ「バットマンみたいだった(小並感)」
       「そして私たちはアメリカへ!(すっとぼけ)」
       (※数秒前に目の前で恩師が殺されています)
名セリフ「薬は注射より飲むのに限るぜ!ゴジラさん!!(床下崩壊)」
・ゴジラVSキングギドラ
まず、登場人物全員の車の運転が荒い。
それはさておき、様々な作品へのオマージュ、リスペクトが見られる。
BTTFやT2は絶対影響されてるwwww
ただ、仏教美術とか、平家物語的な要素もある。
まず、ゴジラやメカキングギドラの出現シーンではどちらの怪獣にも後光がさす。それが、もう、彼岸の世界を感じる。
また、戦時中にゴジラザウルス(放射能の影響を受ける前のゴジラ)に助けられた日本兵が日本の戦後復興の中心となるも、
結局はゴジラの熱戦を浴びて死ぬのだが、その直前にゴジラと老人が見つめ合う。
平家物語の敦盛を感じさせるような、ゴジラとの声なき対話があった。
ネコ科の動物は愛する相手にゆっくりと目を閉じるというが、ゴジラもまた、この日本兵だった老人を殺す直前にゆっくりと瞼を閉じるのである。盛者必衰と世間虚仮、万物流転の世界観が根底にある。
この映画が公開されたのは1991年。で、なんでキングギドラが来たかというと、バブル崩壊しなかった日本が、ソ連やアメリカさえも買収し巨大帝国を23世紀には作ってしまう、という未来を変えるため、未来人たちがキングギドラを過去の日本へ送り込み国力を低下させるためだった。・・・この映画が作られたときは、冗談半分本気半分だったのかも。まだバブル続いてる時ですよね??空想と現実がリンクして、盛者必衰、万物流転を感じざるを得ない。
23世紀、まだなんやかんやで生きていそう。2100年代まで生きていて、そこで、すごい若返りの薬品投与されて、また百年生きて、って死ぬのを先送り先送りしてそうなじぶんがいる。
それにしても、今と20年前って東京はほとんど変わらないですね。東京というか都市の街並みが変わらない。
喜んでいいことなんだかわからないけど。
キャッチコピーの「お前だけには絶対負けない」は、ほんとしびれる。最初はゴジラが言っているんだけど、最後は、人間、メカキン(YOUTUBERか)側のセリフのようにも思えてくる。
・ゴジラVSモスラ
小林聡美が最初は嫌な前妻だなあって思いながら見ていたけど、だんだんとてもしっかりした女の人だという印象になり、魅力的に見えてくるからすごく不思議。
また、最初の20分くらいすごく眠かったんだけど、あの歌が流れてきてから「あれ、ハンス・ジマーの作曲かな?」と思うくらい壮大な伊福部サウンドとともに、モスラの文字通りの日本列島横断、進撃が始まる。
いろんな物事が想起されるんだけど、忘れてしまった・・・これだからセレンディピティ的思考は困る。
とりあえず、この作品で自衛隊の戦車にいた渡辺哲が、シンゴジラでものすごく出世してることと
大竹まことが演技がうまいことはわかった。
モスラヤ モスラ
ドゥンガン カサクヤン
インドゥ ムゥ
ルスト ウィラードア
ハンバ ハンバムヤン
ランダ バンウンラダン
トゥンジュカンラー
カサクヤーンム
モスラよ、モスラ
あなたの母の神秘力で
あなたの賤しきしもべの祈りを
かなえたまえ
さあ、起き上がり、
その神秘の力をお示しください
新潟大のHPに載っていた・・・
http://www.iess.niigata-u.ac.jp/shoshu/mado/language/08indonesian.html
モスラを呼びたくなったら歌いましょう。
・ゴジラVSメカゴジラ
これは、いいね。
僕が遊びに行ったり暮らしてたりするところが余すところなく破壊されていましたwwwww
まず、京都。京都タワーはゴジラの熱戦でぽきっとおれました。
そして、青森。海に近い三角形の建物らへん、ラドンのソニックウェーブでやられました。
つぎ、仙台。東口方面からラドンが飛んできて、またも、衝撃波で仙台駅大パニックでした。
そして、TDL。・・・・無傷。
怪獣も、ホーンテッドマンションに乗りたいから残してくれたんだろう。
ラドンやベビーゴジラの存在があるからこそ、単なる善悪の戦いを超えた、正義同士のぶつかり合い、真剣勝負がみられる。
人間側は当然ながら、世界や日本を守るためメカゴジラを作り、ゴジラと戦う。
ゴジラは、自分の子供であるベビーゴジラを取り戻すために日本上陸し、「荒」探しする。
両者の共通点はまさに「種の保存」
この映画の最後に、「戦いを制したのは命だった、命のあるものとないものの差が勝敗を決した」と言っている。
たしかに、メカゴジラは木っ端みじんだったけど、メカゴジラを操縦して命がけで戦った人間は全員生きている。
両者とも、守るべきものを守った。それは正義同士のぶつかり合いで、どっちかが悪いとか、ちゃちな問題ではないということ。
ゴジラは、 半自然半人工の生命体である。自然は善悪を超越しているが、人間は善悪の判断に基づいて生きる。
ところが、今回出てくる人間たちもまた、善悪の判断を行いながらも、善悪を超越した場所にいる。それが自然のおきてたるべき「種の保存」をかけた戦い、となっている。人間もまた、ゴジラと同じように善悪の判断をしながら善悪を超越している、半人工半自然の存在なのだ。それを視覚化するために仮託されたイメージがメカゴジラなのであって、結局これは、ゴジラと人間が同じ位相にいるドラマなのだと思う。
いろいろ興味深い点はあって、想起されるのは、ある文化人類学者が「ある民族が、良い民族か、悪い民族かを判断するには、民族独自の音楽があるかどうかを知る必要がある」と言っていたらしい。本作品でも、歌、音楽がキーワードになる。
モスラの歌ならぬ、ゴジラの歌があったのだ。 超能力を持つ子供たちが感じたテレパシーをコンピュータで再現したら音楽になってたらしい、なんだそれ。
民族独自の音楽があるということは、ある程度文化を共有している民族だということ。ゴジラにも歌がある、ということは・・・。
また、ベビーを見つめるゴジラの瞳ね。雌雄どちらでもあり、どちらでもないような存在。当たり前だ。半自然半人工の生命体が二者択一で縛られる存在ではありえない。ゴジラが雌か雄かなんて、昔結構まじめに考えてたけど、全く本質を分かっていなかったなあ。
メカゴジ120m シンゴジ118.5m この差は、僕の身長くらいしか違わない。
現代人の皮をかぶった超能力者が受難する場面があるのだが、もっと掘り下げれば面白かったのに。
現代ではその力は兵器とされてしまうので、厳しい拘束状態を受けるとか、力を利用されすぎて、生きるパワー自体が失われるとか。
また、昭和のメカゴジラ戦のオマージュもあるよね。光線同士の空中でのぶつかり合いからの爆発や、岩の向こうから、鋭い目つきのゴジラの顔が現れる場面とか。
欲を言えば、ラドンとゴジラに囲まれたメカゴジラが、ゴジラとキングシーサーに挟み撃ちにされた時と同じように、アレをやってくれたら・・・などと思ってしまう。
・ゴジラVSスペースゴジラ
スペゴジの顔って原田泰造にそっくりだよね。
それはさておき、なんと、このスペゴジ、我が故郷の山形にも飛来し、山形駅、霞城公園、そして、旧県庁である文翔館あたりを爆発させるのである。そして、この 文翔館の裏手が大爆発してるんだけど、そこはうちの実家ですwwwwwよくやってくれたぜwwwwww
たぶん、僕の家の向かいのはっとり君の家とか、その彼女の家とか、僕のかかりつけの病院とか、変な宗教団体の施設とか、お好み焼き屋さんとか、無くなってますね。あと、霞城公園から、僕のおばあちゃんの家と、小学校方面に飛び立ったし、山形駅から日大山形高校方面へ飛んでったから、よっぽど、スペゴジは僕に恨みがあるのだろう。
柄本明がサバイバルしてる。けっこう新鮮。このひともシンゴジで出世。
あと、超能力少女が、いつのまにか研究所の所長に。これまた出世。
うーん、ぶっちゃけ、リトルゴジラがかわいかったことくらいしか、あんまりない。
ただ、スペゴジの弱点を、ゴジラが人間の頭脳よりも先に本能で悟っていたと思われる描写があり、はっとさせられた。
半自然だから、超自然でもある。したがって、理論の積み重ねよりも(理論もまた自明という自然が必要条件であることが多いので、自然を超えた存在は、より)速く正しい答えを察知できる、というような。
モゲラもなあ・・・
正式名称は Mobile Operation Godzilla Expert Robot Aero-type (対ゴジラ作戦用飛行型機動ロボット)
らしいのですが、あまりぐっと来ず。
VSメカゴジラのテーマが「種の保存」だとすれば、今回は「同族嫌悪」というべきか??一瞬頭をよぎった。
迷台詞
「ゴジラって、けっこういいやつだったよな」
「男のひとって、殴り合わなきゃ、分かり合えないってわけ?」
「そこがかわいいのさ」
謎のエンディング・・・www
さあ、次は、いよいよ。
・ゴジラVSデストロイア
最後の三十秒のための映画。それ以外のシーンでたとえ、デストロイアがあっさり倒されたり(悪役は死ぬなら苦しみ抜いてから死ぬべき)、上海でゴジラが出現しても一般人は普通に暮らしてたり、いつのまにか夜になってたりしても、全て最後のシークエンスでチャラになってしまうほど、からだがうち震える結末。
色々言いたいことはある。
まず、芹沢博士を、悪魔の発明だとか、マッドサイエンティストだとか言うのは正直いただけない。初代ゴジラの裏テーマは正義と正義のぶつかり合いだから、悪魔もマッドもいない。
今回においては、ゴジラジュニアを守りたい側と世界を守りたい側との対立があったりして、そこらへんが初代ゴジラとリンクするかな、と思った。
また、僕はBGMを鳴らしてよい場面ではならすべき、もっといえば、無音、無BGMの場面は極力ないほうがいい、全編通してBGMはなっているべきだと考える人間なので、「えっ、ここで鳴らないの?」みたいな瞬間がいくつかあった。
ゲスト出演した、山根恵美子の
言葉の重み。
「それしか方法がなくても、オキシジェンデストロイヤーを使って欲しくない」という台詞は重い。TwitterやらFBにちゃちゃっと書いてあるような、(あるいは自分または自分の仲間内だけが真剣と思っていてまわりは冷ややかな目で見ているような連中が書いたような)ヤワな反戦、反兵器の言葉とは比較してはならぬほど、重い。
なぜなら、恐怖があるから。
怖いから戦争は嫌だ、兵器は使っちゃダメだ。これ以上の言葉が他にあるか。自分の恐怖をさらけ出して嘲笑される覚悟のない、ほかに理屈をこねくりまわしたような反戦のメッセージなんか要らない。
ま、結局はデストロイアもオキシジェンデストロイヤーという兵器の受肉化というか権化だし、それにとどめをさすのは自衛隊の兵器。ある部分では生産性のないといわれてもしかたなのない兵器同士で打ち消しあうという結末になっている。
からだのなかが爆発しているのにあゆみをとめないゴジラ。
人間以外の生物でさえボロボロになっても本能に身を任せて生きようとしたり、する。
傷だらけなのに歩まなければならない。本能がそうさせていて、本能でしか考えられないから止まらない。撞着がないぶん、それは人間よりも幸せなのか。歩みを止める、ということは、死を意味する。
ああ、でもこの作品では歩みを止める、と、今度は「未来」が歩き出すのか。
だから、歩むのか。
やっぱり、こころ震える結末。

 

・ゴジラ2000ミレニアム
酷評のわりに自分は普通に見ることができた。これはおそらく、映画ではなく前衛舞台として観ると、リアリティのなさなどの違和感が逆に持ち味となって、別の楽しみかたができると思う。阿部寛が最後に叫んだのも、あれはメタフィクション的な瞬間なのだろうと思った。
こんなに近くで見るのははじめてだ、からの阿部寛の一連の行動や言葉は、なんというか、撮影技術の進歩で、あそこまで合成がうまくいけたこと、そして、一人の俳優として、歴史ある巨大な存在の前にたてるその感激を表しているように思った。その感激は、「ゴジラーーー‼」という叫びでしか表せない。もし俳優として同じ立場にいたら、僕も同じように「ゴジラーーー‼」って言いたくなる。言いたくならない?(KONAMI)
俳優をやったひとなら、そーゆー、舞台特有のメタ的な瞬間であることを無意識に感じとり、違和感よりも謎の感動を味わえるひともいるような気がする。映画よりも演劇の方がメタフィクションを使いやすいのではあるが、映画で使っちゃ悪いなんてことはない。デッドプールなどの分かりやすいメタフィクションの例もあるけど。
急にメタ的視点が入るからわからなくなるのであって、想像力豊かな人間はこーやって自分の都合のいいように納得できる。
なんだろな、つくられたのが1999年でしょ。終末思想があったわけよ。2000年問題とか。僕もそうだった。ノストラダムスの時と同じくらい、1999年の大晦日は怖かった思い出がある。わけのわからないものがくる、そういう予感は持っていたなあ。
ゴジラが東海村の原発に歩いてくるシーン。この物語のなかでは、ゴジラは想定内の存在。
想定外の非常時と、どうかかわればいいのか。どこからどこまでを想定すればいいのか。想定外ということは、一種のフィクションなんだよ。ところがそのフィクションも、現実がなければ存在しない。シンゴジラで、はじめに「巨大生物ではないか」というフィクションめいた想定をぶちかまして、本当にそれが当たってしまっていたり。何百年も前の記録から、地震の周期を当てたり。そーゆーことができるには、金と時間というふたつの余裕がどうしても必要だ。金と時間の余裕がなければ、想像も考えることも、すべて表面的なものに終始してしまう。まあ、もちろん、飢えと焦りが良いものを生むときも、往々にしてあるのだが。
たくさんのひとの意見を聞く。それだけでも想定の範囲というものは広がっていくのではないか。
UFOのCG感はたとえ1999年製作であっても許されるものではない。
また、やるきなさげなオープニングはありえない。全く盛り上がらなかった。
最初らへんすごーく退屈。画面も暗いし。あと、音楽が全然使われていない。無BGMの状態が多すぎてどこが大事な場面なのかわからずじまい。ドクターフーなんか、BGMがない場面がないほど使う。だから分かりやすくて面白い。とにかく無BGMの状態は減らすべきである。日本映画の悪い癖。
まあ、これを酷評している人は、「ゴジラ対メガロ」を観ましょう。時代が違うからといっても、許される作品ではありません。
まだ、「ゴジラ対メガロ」を見ていない人は、観てからこのミレニアムを観ましょう。普通に楽しめるはずです。
「ゴジラ対メガロ」の存在意義は、他の作品を、ものすごく魅力的に見せる、料理でいったらパクチー味のカブトムシみたいなものだということです。メガロだけに。
ゴジラに出てくるサスペンダーの人は、全員ボタン式サスペンダーをしている。クリップ型より、激しい動きをしても取れにくいからである。そこら辺よくわかってると思う。

・ ゴジラxメガギラス G消滅作戦
リアリズムが最大の敵。ドラマから生まれる感情を削いでしまう。
たくさん生まれた巨大ヤゴに、むなしく響く自衛隊の鉄砲の音。パンパン。
これがくそみたいなリアリズムなんだろう。詰まんなすぎて話にならない。途中寝ました。記憶にも残らないであろう駄作。
ま、ゴジラの背鰭に乗っかったの初めての人類が出てくる。
あとは、わくわくさせる予感は絶対必要なのだということもわかる。
ブラックホール作りました、渋谷が水没しました。いきなりいわれてもねえ。
ドクターフーや、初代ゴジラはそのへんしっかり予感させてたよね。くるぞ、くるぞ、っていうかんじ。ビオランテの例の場面もそうか。
いきなり初代ゴジラにかわって、ミレニアムデザインのゴジラが1954の日本で暴れまくるところと、志村喬らしき人物や、国会での女性議員のオマージュなどはおおっ、と思ったけどそのあとがそのあとだけに、つまらない。
自分のことを谷原章介だと思っているカズレーザーが主役。

・ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃
これ最高だな!!!!wwwwwwwいいねえwwwwww
もう最後の最後であの音楽出すかあwwww だから初登場ではゴジラ出現の音楽じゃなかったのか!!超納得。
まず、超一流バイプレイヤーをこれでもかこれでもかこれでもかと招集し、大満足な出演者陣となってるだけでもいいのに、彼ら一人一人がやっぱおもしろい。特に大和田伸也や、少年アシベで天童先生のモデルになった俳優さんがいい。
また、宇崎竜童は会議中でもグラサン。はずせ、とか誰も言えない。ゴジラの胃袋に初めて入った人類ww
新山千春かわいい。
ミレニアムシリーズはぶっちゃけ、申し訳ないんですが、掃きだめ作品しかないと思っていたが、これは、初代、VSデストロイアの次に僕の中ではランクインしています。
この演出だったら、たとえ、元の案だった「ゴジラ バラン バラゴン アンギラス 大怪獣総攻撃」でも十分、というか戦いの結末がどうなるかわからなくて、ものすごく面白かったのではないかと・・・WWW
結末がどうなるかわからないのがいいよね。ゴジラ2000で、敵怪獣を倒して東京を火の海にするエンドを体験しているから、必ずしも人間が勝つとは限らないという文脈の上で観ているので、やっぱおもしろかった。
まあ、でも、バランとバラゴンでは名前が被るし、バラゴンとアンギラスでは、地を這うキャラが被るから、やっぱここはバラゴンをマンダあたりに変えて、
バラン・・空の神
マンダ・・海の神
アンギラス・・陸の神 ってすれば、めちゃくちゃ良いバランスだったんじゃないかな
ま、その場合でもバラゴンは不遇な目にしか合わないっていうねwww
また、メタ発言が多く、これも何かしらの意図を感じる。「20世紀末にアメリカに現れたゴジラらしきものは・・・」って、エメゴジ否定から本編が始まるのはウケるwww
天本英世が、もう・・・もう・・・!すばらしすぎて・・・!あんなおじいさんになりたい・・・
いるだけで、荘厳な妖しさがあるまさに妙齢になりたい・・・
なんか、天本英世の朗読CDとかないもんかね・・・話すだけでまわりが震えるような、そんな老人になりたい・・・
幽霊のはずなのに、不特定多数の人が目撃しており、ビデオにもとられている(後で消えるんだけど)
そんな存在になりたい・・・
最高すぎるエンディングなので、何回もそこだけリピートしてしまうww
忘れ去られるものの悲しみ、その無念。
だが今回のゴジラ、篠原ともえを殺した罪は重いぞ。篠原ともえの上顎の歯並びを下から俯瞰できる(?)シークエンスは貴重。
カミ観念自体が人間によって作られたものだから、バラゴンもギドラもモスラも結局はカミではなく異常進化した怪物でしかない。実際のカミはいない。だからゴジラに虐殺される。この映画には、本当の超越者はいない。カミはいない。いるとすれば天本英世のみ。

ゴジラ×メカゴジラは子供の頃映画館で見たので、言葉をこねくりまわすと感動が削がれるのであえて観ないし感想も言いません。

・ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS
結構まとまりすぎてて、けれん味もないため、そんなにテンション上がる作品ではないが、寝もしなかった。
ただ、小美人の衣装は可愛くなっている。長澤まさみが、あのうたを歌っています。
また、正式にゴジラが東京タワーを破壊した初めての作品。一般的な見所はそんなところか。
ゴジラモスラメカゴジラと言っておきながら、「バラゴン的タイトルにさえ入れられなかった怪獣」が出てきたと思ったら、カメーバかよ!しかも死骸かよ‼
完全な妄想だが、タイトルの怪獣たちが、タイトルにはない怪獣を、協力して倒す、そんな展開あったらいいなあ。
大怪獣総攻撃の例で言えば、
ゴジラモスラキングギドラが互いに争うも、真の黒幕、最強最悪の怪獣は実はバラゴンだった!タイトルに名前のある三びきはバラゴンを倒すために協力して必殺技を出す❗とかさ。
タイトルにだせる名前の認知度も関連してくるかな。
「サンダ対ガイラ」「ゲゾラ ガニメ カメーバ」あたりの「お前ら誰だよ」怪獣でも、最後らへんにゴジラが出てきて、タイトル怪獣たちが共闘したら燃えるよね。フィクションにおいて、新規参入者がある程度のネームバリューを一挙に得るには、こういうマッチポンプが比較的手っ取り早いかも。