父の話 | カサンドラな日常

カサンドラな日常

私の夫はASDです。
分かり合えない生活ながら、30年。最近、私のような人にカサンドラ症候群という名前がある事を知りました。
自分だけじゃ無い。
まだまだ続くカサンドラな日々を、楽しみながら過ごしたいと思います。

思えば父も、多分ASDだったと思う。仕事熱心で、私には優しい父だったが、友達がいなかった。友人を連れてくる事が無かったので、家族との関係でしか父が分からない。


端的に言うと、マイペース。

みんなでテレビを見ていても、自分の見たい番組が始まると勝手にチャンネルを変えてしまう。

雨に濡れる事が極端に嫌いで、一人で自分が濡れない角度に傘をさし、さっさと行ってしまう。

母が体調が悪く休んでいても、時間になると

「おーい。飯」

昭和の男で済ましていたが、定年後の母との関係は最悪になって行った。

父に介護が必要になると、母は廊下にバリケードを作り、寝室とトイレ以外に父が入る事を許さなかった。ケアマネに何度説得されても、これまで自分がどれだけ辛かったかを訴えるばかりで、虐待として記録され、私にも報告された。

私と母の関係も、どんどん悪化。

父に会うのも一苦労になって行った。


母が足を骨折して、自宅介護が難しくなり、父は施設で生活するようになった。1日置きに、家に帰りたいと連絡が来る。その度に会いに行き、母が骨折している事、治るまで帰れない事を話して聞かせる。認知も進んでいた。

でも、私と父だけの、親子の時間が圧倒的に増えた。夫婦と親子はまた違うのかも知れない。

父を受け入れる事に、あまり抵抗は無かった。


父にサービス精神は無かった。美味しいものを食べに行くとか、何処に行きたいか聞いてくれるとか、母にプレゼントを買ってくるとか。

いつも自分勝手に、相手を気遣わない父と二人きりで暮らしていた母は、発達障害もカサンドラも知らないのだから、さぞ辛かっただろう。


母の骨折が治って父が家に戻って間も無く、父の容態が悪化。いろいろあって、結局老人病院で最期を迎えることになる。

私の自宅の近くに移した。毎日、夕食の時間帯に会いに行った。スープも飲めなくなって行ったが、それでも夕食時は一緒にいたかった。

冬のオリンピックの時期で、日本を応援しながら、他愛もない話をした。

父はいつも、夫と娘が元気にしているか聞いていた。あたたかい、優しい時間だった。


亡くなるまで、母は父に会わなかった。葬儀の間も、父の悪口は止まらなかった。納骨までのお骨を家に置く事も嫌がった。父のお骨は、我が家のリビングに帰ってきた。

お墓はない。合同墓に入れると知って、直前に何とか、コインロッカーのようなお墓(といえるのかな?)に収める事が出来た。合同墓に入れてしまうと、後日父を移したくても、引き取る事が出来ないらしい。父は海に撒いて欲しいと言っていた。子供は私しかいないので、お墓の管理が負担にならないようにと、父なりに考えたのだろう。

海の見える墓地に、いつか移したいと思っている。


母の気持ちも分からなくもない。

気持ちが通じ合わないと感じながら、介護までするのは大変だったろう。

拒絶反応は凄まじかった。

父は大好きな自宅で、最後の日々を過ごせなかった。息が苦しくても、腰が痛くても、自分でトイレに行きたがったのは、家で暮らしたかったから。病院に入ってからは、帰りたいと言わなくなった。


ASDの人に感情は無いのだろうか?

父には細やかな愛情があった気がする。

どうしてこんなに寂しい最期を迎えなければならなかったんだろう。

父はそんなに悪い事をしたのだろうか?


私はもっと、何か出来なかったんだろうか?


父と母に起きた事は、これからは自分に起こり得る事だ。

起こらない保証は何処にも無い。

人の感情は理屈では無い。


でも、願わくば、優しい、穏やかな最期を、お互いに迎えられたら。

私が先か、夫が先か。

そのために、どう生きるか。