今日は、あの恐ろしい地震が起きた日。


当然予期などしておらず、

身体にとてつもない振動が襲ってきた時は、

本当に訳がわからなかった、そんな記憶が蘇ります。


人は心底驚くと、変に冷静になるみたい。

「何が起きたのか?」をリサーチする。

声も出ませんでした。

しかし、きっと数秒のことだったのでしょうけれど。


毎年、遺族の方々のコメントや、

その後の生き様が様々な形で伝えられます。


「成仏してもらうには忘れてやらなければならない。

生きている人間が、もっと前向きにならないと、とは思うのですが。」


「悲しみは薄れるものだと勝手に思っていた。

でも、違うのですね、どんどん積み重なって行くものなんですね。」


「人の生きる時間の儚さをしっかり伝えて、

命の貴重さを一人でも多くの方に感じてもらい、より良い人生を送って欲しい。」


当時の様子を知れば知るほど、

家族を失った急転直下さに向合えない気持ち、

その亡くなり方の壮絶さに、

ただただ静かに多くの遺族の方々の言葉を聞くことしかできません。


そして当時幼かった子供達が、


●人の役に立ちたい

●亡くなった方の分も、自分らしく生きるんだ

●人の事をいつも考えられる人間になりたい


と、志を持ち実行している姿に、羞恥心が・・・。


私自身も家は傾き、近くの学校の体育館で寝泊りし、

友人の家を転々としました。


様子を車で見に来てくれた友人と負傷者を病院に運んだり、

集まった食糧を配ったりと、少しだけですが出来る事はしました。


あの時はそんなことができたのに、今は何が出来ているかな?


とはいえダイレクトに経験していない人とは、ちょっと違う人生観になっていると、

仕事場で、友人関係で感じる事は、自分なりには多いです。


そう、「何が出来ているか?」


何か特別な事をする事が、「何か出来ている」のではない。


★人の立場を常に考えて行動できるかどうか★


なのだと私は実感しています。


人間関係が上手く行かないのは、


◆自分だけを守る行動=自分を顧みず、人の落ち度を探してコトを進めて何か生まれる??

◆自分が恐い事は相手も恐いと想像できない=同じならばもっと糸口を探れないのか??

◆人を思いやれない人は、人から思いやってもらえない=永久に孤独と気付かない??


言葉は平易ですが、実行が難しいのは承知しています。


でも、命あるならば、少しでも幸せに暮らしたくないですか?

一人でも多くの人と、一緒に幸せだといいなぁと思いませんか?


否定すれば、距離が広がるのは当たり前の現象です。

ならば、小さな行動であっても、一人ずつが人との距離を縮めて、

相手の話す事を聞こうとしたら、変わっていくのではないでしょうか。


私は仕事の場で一番それを感じます。

利害関係だからこそ、糸口を見つける努力をすれば互いが得をしませんか?


どちらかの利益や、やり方、思いを押し通すばかりでは、

それはビジネスではなく、単なる搾取作業です。


友人関係は、基本的に好意的な者同士が集まるので、

なんらか皆努力をします。


1月17日。

毎年、「人を思いやる心」に特に想いを馳せます。

生かされた、神様に選んでいただいた命を抱きしめながら。


私自身はこの日だけでく、日々心がけるよう努力を続けます。

”コミュニケーター”という肩書きはここから由来しているのですから。


みんなが、より幸せに、優しい気持ちで暮らすために、

無念に世を去らざる得なかった多くの方々を想いながら、

この日だけでも「人を思いやる」ことを熟考してみませんか。