愛を乞う子供 | 毒を持つ人

「コトンさんが『狂った』のー!」


モラさんが大はしゃぎで取り巻きと祝賀をあげていた時。

被害者さんたちのバイブル、「毒になる親」についての記事を読んでいました。


わたしの場合は相手が配偶者や肉親ではなかったのですが、「毒親」は避けては通れないというか、境界例について調べていると向こうからやってくるという感じで、関連ブログにも書物にも、興味のままに目を通していたのです。

境界例の「毒」がどこに向かうかで、毒親被害になるか、フレネミー被害になるか、その他のモラハラ・トラブルになるかの違いだけで、以下のこと、


「引き立て役を用意することで、自分を引き立てようとする」

「子供の友だちと、自分の方が仲良くなろうとする」

「”監視”の立場をとり、ターゲットの尊厳、命、健康を踏みにじる」

「第三者を利用して嫌がらせを重ねる」



「裏からトラブルの種をまきながら、知らん顔で高みの見物をきめこむ」

「正体がバレそうになると、突然、生き方指南のようなものを口にして自分優位のままに煙に巻く」

「明るくポジティブで親しみやすく、愛嬌抜群、裏表がないように一見みえる」

「ターゲットを真似て、こっちが元祖であるとひけらかす」



「反論されるとズレた正論で責任を回避し自己保身」

「他人に徹底的に厳しく自分に甘い。自分贔屓の落差がひどく、本人には矛盾がない」

「人の欠点や汚点が大好物で、見つけるとはしゃぎだす」

「反撃されると、タゲからの攻撃に健気に耐えてます、といった様子でじっと同情をひく」

「過去身近な人を「狂ったの-!」にしてきた、”成功体験”がある」


など、こういった境界例の特性は毒被害に共通でした。相手との関係性とわず、

「まったく同じ事を言われました、やられました」

と皆でびっくりすることが多かったです。


わたしの場合は加害者が「親」ポジションではなかったために、毒親に育てられた人が毒親本を読んだ時に覚えるあの、

大ショック!

震えがとまらないほど怖い!

そんな衝撃はなかったし、海外の事例ということもあって実感的にも一部ピンぼけなままでしたが、その後読んだ何冊かの毒親本は、十分参考にはなりました。


(自己愛の毒親)

・子供は親の支配下。

・子供は親に尽くし、子供は親を際限なく受け入れて何を言われてもやられても許すべき。

・親がこれほどの犠牲を払って育てたので、子供たちは親を愛さなければならない。

・愛し愛される家族として世間にも認められ、愛しあう両親、親を愛する子供役を絶対的にいつでも演じて、笑顔でいなければならない。(モデルハウスの冊子にあるような家族像)

・子供は親に貢ぎ、感謝し、尊敬しなければならない。

・縁、義理、親を大切にしない人間は孤立して不幸になるべきだ(してやるぞ)。

・親のためにこれだけの努力をしろ、お前は親の誇りになるべき。


常に幸せに!

親に心を開け!


というような思考回路が目立ちます。

※個人情報の詮索から日記や手紙を勝手に読まれたり吹聴されるのも、毒親被害者さんの共通体験談。


まともな親なら(ざっくり「まとも」と括ります)自己愛毒親とは正反対。

毒親の、

「子供たちが心を開いて親を愛し、助けを求めるべき。そうすれば味方として受け入れてやるし、助けてやる」

親が主体で子供は付属物の、力関係を強調した支配の形式ではなくて、

「親が子供を無条件に、開けっ放しに解放して、愛してる」

このくらい違います。


(毒ではない親)

・親は一定年齢に達した子供には干渉せず、ままならぬ時には手を貸すも、遠くから見守る。

・親は子供に尽くし、子供を際限なく受け入れて許す。

・世間さまに自慢することでもひけらかすほどのことでもないのだから、家庭内のことはひかえめに。よそはよそうちはうち。隣人の真似をしたり競うことはみっともない。

・子供には子供のご縁があり、いつかは別世帯を持つもの。

・親子といえど別の人間。子供の秘密は尊重し、その生き方をありのままに、大切にする。


毒親被害者の生の声をきくことで、どうして被害者・加害者の双方が、

「自分こそ被害者だ」

と思っているのか、すこし解けた気がしました。

「親とはまったく話が通じません」

「本当に自分が悪いとはこれっぽちも思っていないのです」

そう悲鳴をあげる毒親被害者さんたちのお嘆きも、ごもっとも。

だって、正反対。

上記のように、認知・認識が、自己中自己愛の人とそうでない人とでは、完全に逆なのです。

ええっ、それはこっちのセリフ……

と絶句するような返答が自己愛の人からは平気で、本気で返ってきたりするわけで、これではお互い宇宙戦争です。

(人を痛めつけることに抵抗がなく、心臓に毛が生えた自己愛の方が勝つけれど)


これらのいわゆる”毒親”も、自覚がないだけに、本気で子供のことを誰よりも心配しているし愛してると、本人たちは思っていたりします。

だからこんな悲劇も起こります。


子供のお誕生日会を「ひらいてあげるね!」

飾り付け、料理、お手製のプレゼント、ゲーム、親、はりきる

すっごーい、○○ちゃんのお父さんとお母さんすごーい、と招かれた子供たち大歓声。頑張った親も認められて褒められて自己愛がたっぷり満たされて、大満足

あれ? 主役はどこいった?


境界例とは話が通じない、話し合ったところで、ちょっとズラしたところに正論をもってきて、正しいのはこっちだとやられるばかりで、日本語が本当に通じない。

そのズラしかたについて、説明は難しいのですが、難しいだけに挑戦してみました、以下。

例)

A:

「あなたの言い分では、何か障害や持病がある人間は、笑っていたらすべて「から元気」であり、幸せになってはならず、ずっとうつむいて不幸でなければいけないようですね」

Bの回答:

「障害がある人が惨めな思いを隠して強がって生きているのは偉いなあと思います。それに比べて苦労をしてきたわたしは心が鍛えられて病のようなものとも縁がなく、隠し事もありません。人間的に優れてしまったようです」


A:

「人間には強いところも弱いところもあり、幸福も不幸も交互に訪れるものです。いちいち他人があげつらったり、土足で関与するところではないと思いますが、あなたはこれについてどう考えますか?」

Bの回答:

「わたしは柔軟で幸福だったんだなあと。不幸な人をかわいそうに思いますが、わたしは生まれてきてよかったなあと思うばかりです。人それぞれ、難関を前にした際にみせる心のありようは難しいものだよ。病にかかることで防衛しているのかもしれませんね。こういう時に真の人間性が問われるのだな。見苦しい人間についてどう思うか? ご縁を大切に」


自己愛性人格障害者の人とはこのくらいズレる(※被害の渦中にいる被害者さんに笑ってほしくて書きました)

主点をずらされて、会話にならない。

徒労の果てに被害者さんは「とにかく逃げる、関わらない」を選択するほかなくなるのですが、相手は「人と向きあっていない」「現実をみていない」と、どこまでも平行線のままです。


毒人間にとってターゲットは、引きずり落とす対象なのかな、と思うこともありました。

ターゲットが楽しくて笑っていたら、

「表面をとりつくろっている」「無理やり面白くしている」

と背中から突き飛ばし、

コツコツ好きなものを創っていたら、

「笑顔で人と交流するほどの余裕もない異常者」

「孤高きどりの自己愛、自閉症、余裕のない発達障害」と言い、

「笑顔をみせて愛想よくするのが人間関係のコツ」と言ったり、

「無理するな、頑張るな」と言ったり、

「孤高で頑張るのが正しい姿だ」

「人と交わろとはしない傲慢な自閉症、認めてもらえないからってすぐにいじけて閉じこもる」

「イライラしているはずだ、頑張りすぎ」

「ここでやめたらお前は頑張る力がなくて根性がないわけだ」

などなど、

ひたすらケチをつけてアドバイザーの優位性を押し付けてくるのですが、こういったダブルバインド(支配の変形)も、自己愛被害にあった被害者さんたちが口を揃えるところ。

ターゲットを下げることで、自分が上がる。

他人の努力や人生の主役も自分自分自分。


わたしはちょうど、毒親被害の「子」の立場におかれていたので、これらの皆さんの詳細な体験談がひじょうにためになりましたし、ダブルバインドの理解のたすけにもなりました。

愛されたいのは自分の方であっても、親に無条件に従いご機嫌伺いをしない子供が悪い、子供に問題があるのだ、という上から上からの、毒親思考。

ストーカーしながらつきまとっているのは自分の方なのに、モラさんがわたしにつけた投影性同一視のイメージが、何故か、

『愛を乞う子供』

であったことも、すごく象徴的だと思います。





(余談)

あまりにもモラさんが吹聴した、

「コトンは人付き合いができない発達障害」

「傲慢で驕った自己愛性人格障害者」

「ボーダー、自閉症」

のイメージが蔓延し、精神科医も見事にそのシナリオに釣り込まれているものですから、ある時、被害者仲間のお二方にきいてみたことがあります。

(ツマミを囲んでその時いろんな話をしたのですが、みなさん深刻な被害に遭われていました。)

するとお二人は即座に顔を明るくして、

「コトンさんがボダなら、世の中平和ですよ」

と笑って言ってくれました。


性格の悪い被害妄想の発達障害だと認めろ、認めたら助けてやる、素直になって心を開けと、『スーパー上から目線』でゴリ押ししながら支配・依存してくる人間の言葉は響くことはないのですが、この時の彼らの言葉には、一気に励まされました。


あの時お礼を言ったかどうか定かではないのですが、とても嬉しかったです。ありがとうございました。