何だったか。 | きつねのおきゃくさま

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四月だし、何か新しいこと始めたいな~と、今更ながら初めてblogに挑戦☆

先日、むかし大切だったような気がする人に会った。

すごく楽しみに思っていたけど、会ったら実際、もう目も合わせられなくて、ご挨拶、する勇気も気力も出ず、どんな表情を用意すればよいかも考えられず狼狽する。そして…、どんなだったか思い出せなかった。もう何も感じられなかった。そんな自分が哀しくて、乱れて帰り道たくさん泣いた。時が経ったことを知る。

結局、どんな方だったのかなぁ。何を思っていたのかな。総て知ってあなたは何を感じたかしら。もう聴く術もなく、気力もない。とにかく大切で、お陰で生かされた。

私は、少し病気で、どうやら少しまだらに記憶を無くしているらしいことを、あまり聞き取れない周囲の雑音からかろうじて推測する。そして、何か…正しくいろいろを察知することができないらしい。

それから、たくさんよかれと思ってしたことも、他方には悪く捉えられてしまったことを知り、ひそかに失望する。もう、意見しようとすら思わない。こうやって、人は失望を重ね諦念を得るのかしら。いろいろと下らなく思える。


人と、うまく心を通わせられないようだ。独特な人間関係のイメージをもっているみたい。人といても、何か気持ちの繋がりを通せない。

何か、ひとつのことに取り組んでいると、他の雑音や視覚情報が…、皆さんのように認知に入ってこないようだ。それが、様々の引き金になっているのではないかと思うようになっている。

自意識過剰なのかもしれないが、複数から好奇の目を寄せて頂いていて、私のしょうもない一挙手一挙手が観察されているような気がする。もう慣れたけど。それで、何かしら、構って知的に遊んで頂いてる感じ。

私の、器の内側に存在していると、うまく客観的に事態を把握することができないし、過去を正しくネーミングすることもできない。それにそういったものは、きっと…、正しさよりも、自由にそれぞれが解釈していいんだと思ってる。

かろうじてたまに聞こえる空気と言われる雑音やらから捉えるには、私が思う私像や私の趣向と少し離れたところに、外から見た私像があるようだ。それでもフィットせずとも、その外から見た私像に配慮を入れて下さっているような感じがして、違うんだけどもお気持ちはありがたい。

むかしあった様々への興味が、いつの間にか薄れ、私はもう違う人間になったみたい。本当に、生きていると言うのかなぁ。

激しい生活から、柔らかな生活に今は推移させていて、それと共に、惹き合う人種も変えた。そんな変化は優しく刺激的で、人生を彩る。