大学でいちばん楽しみにしていたのは、自分で授業を選べることだった。
私の通う大学は学部学科の垣根を超えて幅広く授業が取れるので、文系であっても数学や物理が学べたり、資格取得のための講座が数多く用意されていた。
必修と被らないようにしたり上限を超えないようにしたりと、履修登録にはかなり苦労したが、自分の興味関心があるものだけで埋められた時間割は輝いて見えた。
私はずっと暗記ばかりで模範解答のある高校までの「勉強」に嫌気がさしていて、答えがなく自分の意見が問われる「学問」に憧れていた。ようやく「勉強」から縁を切れることが嬉しかった。
しかしいざ講義が始まると、私は高校までの「勉強」に助けられた。
例えば、心理学。心理学に物理の公式が出てきた。どのようなものかは割愛するが、この公式は心理学の歴史上とても有名で、心理学が哲学から科学へとなった重要なものだ(ざっくり)。
教授の説明が丁寧なこともあり、私はその公式を理解することができた。だがもし高校で物理を習っていなかったらΔ(デルタ)の意味もわからず、また物理という概念すらわからないままだったかもしれない。また公式なので数学も関係してくるため、数学をきちんと学んでいなかったら講義についていけなかったかもしれない。自分が学びたいものを、自分が学んでこなかったもののせいで理解できないのは、悲しすぎる。
また、こんなこともあった。読書をしていた時だ。私は短歌を読む(詠む)ことにハマっているのだが、歌集を読んでいると海外の国の名前や文化がモチーフにされている短歌によく出会う。
けれど地理が苦手で避けて通ってきた私はその国がどこにあるのか、どんな国なのかわからなかった。全くイメージがつかず、作者と私の間にある糸がぷつんと切れてしまったような感覚に陥った。洋画や翻訳小説にもあまり触れてこなかったので、比喩やジョークに気付けない。深く触れたいのに、無知ゆえに触れられないのだ。
高校での勉強は試験のための勉強、としか思えなかった。こんなふうに役立つ機会や悔しい思いをする機会がなかったからだ。
高校生の時に、自分の興味のあるものにもっと触れればよかった。博物館や美術館に行けばよかった。教科書ばかり睨んでいた私も、少しはモチベーションが上がったかもしれない。もっと大学の講義が深く楽しめたかもしれない。受験を通過点と思えればよかった。
だがそれが実現できる高校生はごく一部だろう。受験でいらない知識は無用と考える教育者・学校があまりにも多すぎる。某氏が言っていたように、日本の教育システムを見直さなければ、大学でしっかり学問に取り組める学生は減るばかりではないだろうか。