またハンカチを失くした。
暑い中、何時間も外で立っていたので、ガーゼのハンカチをずっと使っていた。屋内に入ってからも、そのまま手に握っていた。そこまでは覚えている。が、数時間のイベントが終わり、出口でバッグの中を探ったらハンカチがない。
底の丸い深めのバッグだったので、どこか奥の方に紛れ込んでいるのだろうと考え、とりあえず予備に持っていたハンドタオルで間に合わせることにして、家に帰ってから改めてバッグの中身を出してみたが、そのハンカチは見つからなかった。
一年ほど前、やはりハンカチを落としてしまった時にある人から、「それはあなたの身代わりになって、何かの厄を避けてくれたんですよ」ということを言っていただいて気が楽になったことがあった。今回もそれを思い出し、すかさず「ありがとう、ハンカチ」と言ってみたのだけど、短期間に二度目のせいかどうも効き目が薄いようで、いつまでも気になる。
高価なものではないし、誰かに頂いたなどの思い入れのある品物でもない。いくらでも替えのある平凡なハンカチだ。
これがハンカチじゃなくてもっと重要なものだったら話はずっと深刻であり、心臓はバクバクと波打ち、これからしなければならないことに押しつぶされそうになるだろうから、「気になる」なんて、ここに書く暇もないだろう。
それでも、何であれ「失くした」というのはとても嫌なものだ。
あんなにぎゅっと握りしめていたのに、ほかのことに気を取られている間に何気なく手放してしまった。あるいは、何気なくバッグに入れて、何気なく他のものを出した時にこぼれ落ちたのに気づかなかった。その瞬間が分からないというもどかしさ。
誰かが見ていたかもしれない間抜けなわたしの後ろ姿。床か、地面の上で誰かに踏まれて、踏まれて、薄汚れていくハンカチ。
落とした途端に消滅してしまうとか、すぐに朽ち果てるものならまだいいのにと思う。
けれども、いずれはゴミとして回収されて消えてしまうだろう。路上からも、意識からも。
手放したのはじぶんなのに、まるで勝手に消えたみたいにさ、執着を忘れるんだろう。
より重要なことに置き換え、置き換え、ささいなことはどんどん忘却の河に流してしまう。それが分かっているからこそささやかな、「気にする」という抵抗をしている気もする。Swap transaction related costs The United States of America remodeling the Middle East role SF hospital stairs The Syria talks The Republican budget reaction Oakland prison 騙されてはいけません A majority of Americans favor legalization Home furnishing decoration tax Native American gay couples