正義や義務という大義名分で報道機関や政府から国民に伝えられる情報には
ビジネスや策略としての方針がその意図を含んだ表現として使われることがあった。
数年前にわが家で見つかった満州鉄道の株券は、終戦直前の昭和二十年二月二十日に書きかえられていた。
私の祖父がその頃に手に入れたものだ。
祖父は一か八かの博打をする人間ではなかった。
家族のために小銭をコツコツと稼ぐのに地道に働く人間だったと思う。
しかし、今知る限りではなぜ日本が苦境に喘ぐこの時期に満州鉄道の株などに手をつけたのだろう。
きっと我々には想像できない日本の希望的観測が、統制された情報下で作られていたのだろうと推測する。
戦前の経済的にも軍事的にも成長期であった日本国内では、
米国の圧力に対して各新聞には『日本は闘える』『米国の暴挙を許すな』などの記事がたびたび載せられたと聞く。
そんな表現が国民に受けが良く、いつしか国全体に浸透したのかも知れない。
世論は繰り返し見聞きすることで、明らかに出来上がって行く。
そんなことを誰が信じる?と、軽々しく流していても静かに蔓延していく。
長い歴史の中で人間が何度も過ちを繰り返すのは
騙す人間、騙される人間の弱さなのだろう。
今はマスメディアや役人は信用できないけれど、政府は頑張っていると思う。
国の一大事には醜い損得勘定は慎むべきだ。