はな先生。
そんな風に呼ばれる日が来るとは思ってもいませんでした。
英語のモデル校指定されている、区立小学校5年生の英語補助教師。100人の小学生の週2時間の英語を支えます。
担任は英語専科の先生で区の英語部部長さんでした。日々、子供たちに分かりやすい英語を教える指導を研究する
ために、勉強を欠かさない熱心な先生でした。
この仕事に就こうと思ったきっかけは、とある小さな信念からです。小学校での英語が義務化される見通しとなり、中学に入って初めて英語を習う、という前提は崩れ始めていました。一方で公立小学校の英語教育は見事にまだ成り立っておらず、英語を話せる先生がほとんどいません。語学というものは初めての1年がとても大切なのに、と考える私にとって、この様な状況は教育の不公平に感じていました。
中学は小学校がやって来てくれれている前提で始まる。小学校は中学に行ったらやってくれる前提で送り出す。そのギャップを埋めるのは各家庭の意識しかありません。当然ながら、普通に通っている子たちは、中学一年生の1学期の中間試験の難しさに驚き、英語が苦手になってしまうのです。
アルファベットや基本的な知識よりも、何より、好きか嫌いか、英語はそれが何よりも大切です。他の勉強と違って聞き取りや発話の分野もあるわけなんだから、嫌いな科目になってしまうと勉強がとても負担になるのです。
英語ってカッコ良い。英語を話せるようになるにはどうしたら良いの?
そんな気持ちを持って中学に進んでもらいたい。補助教師の仕事が来た時に、私は英語を教えるなんて大きな役割をできることは当然あり得ないけれども、英語を話すってカッコいいでしょ、ということを見せることは出来るのではと思いました。
当時、ザラにパーソナルクローゼットというサービスがあり、店員さんが似合う服をコーディネイトしてくれるサービスがありました。仲が良かった友達と一緒に、銀座や原宿にあるザラに言って
小学校で英語を教える先生をやるので、ちょっと派手だけど、でも痛くならない感じでお願いします。
店員さんが選んでくれたのは、かなり攻めた感じのコーディネートでした。普段ならばこんな服着ないよな、でも、子供たちの前に立って英語話して、イキるには、実はこんな感じが良いのかも。
学校に行く時は、いつもコーディネートに最新の注意を払って行く様にしました。他の先生は基本的にジャージです。でも、私はジャケットの上からベルトをしたり、花柄の派手なスカートにスカーフとか、イヤリングも大きなものをしたりして行きました。
クラスに入ると補助教師の先生はネイティブの先生の代替の役割なので日本語は一切話さないで下さい。と言われていました。だから、子供たちは、
派手は服を着た英語を話す得たいの知れないおばさん先生
として、位置付けられました。1学期、2学期、段々と時間が過ぎるとともに生徒の名前や顔も覚えて最後はスピーキングテストを100人こなしました。
この仕事は1年間でコロナ禍となり、残念ながら辞めることになります。もちろん、続けても良かったのですがやはり大きなリスクを取りながら続けるまでは出来ない、と判断しました。
5年生の子たちが6年生となり、最後のスピーチをする授業に私は参観に招待されました。普通、辞めた先生は呼ばれません。子供たちが、一緒に組んだ先生が、子供たちが喜ぶから、是非来てください、と呼んで下さいました。
子供たちのスピーチを聞いたり、え、先生なんで来てるの?と囲まれたり、楽しい時間を過ごしました。
はな先生、最後に子供たちに一言、お願いします。
みんな、卒業おめでとう、そして、いよいよ英語が本格的に始まる中学だね。春休みに単語を300個覚えて行く様に。それだけで、テストが楽しみになるよ。そして、中学の英語は容赦しない、今みたいな楽しい授業じゃない。でも、みんな英語が楽しい科目だったってこと、忘れないでね。
綺麗な瞳が真っ直ぐ向けられながら、え?単語300個?とみんなが怪訝な顔をしたのを今でも覚えています。
英語教育に少し触れられたことで、先生の大変さが本当に良く分かりました。同時に、子供たちと過ごすことっていうのが本当に可愛くて楽しい、先生って本当に良い仕事だよな、と改めて思うのでした。
私の仕事は学校の先生で終わってしまうのかな、とコロナの最中は思っていました。その間、脳外科の手術を受けたこともあり、2年弱、家にいることになります。コロナが落ち着いて来た頃、娘が空手のキックが強くなりたい、と聞いていたから、親子キックボクシング教室の看板が目に入りました。パパと通ったら良いよな、と思いつつ、その下に
パート募集、英語の出来るかた歓迎!
と書かれていました。へー、とりあえず、メールで履歴書を送ったら面接に呼ばれました。ここのブログでも良く書いている、パーソナルジムにそこから勤めることになります。
続きます。