高校2年の夏から、アメリカ東南部の田舎町に留学しました。
現地では、交換留学生として、日本文化の紹介、浴衣で日本舞踊を踊ったり、折り紙を披露したり。
鶴しか折れなかったけれども、千代紙を持ち歩いて、目の前で折ってあげると、物凄く喜ばれました。
ある日、黒人の男の子が休み時間に話しかけて来てくれました。バスケをやってる、くらいしか理解出来ない、南部の黒人の男の子の特有の英語が、とても、分かりにくい
気まずい。
そーだ、鶴だ!
こう言う時は、これが効くはず。話しながら、鶴を折って渡しました。交換留学生としての役割を果たせた〜
次の朝、私のロッカーの前で、黒人のチアリーダーの女の子が待っていました。結構、学年で目立っていた子でした。
彼ね、凄くバード→折り紙の鶴 の事喜んでるの。金曜日に一緒に映画に行かない? って聞いてきてって、行けるよね?
私は、圧倒されて、うん、と、言ってしまいます。断れる雰囲気では無かった とてもとても
彼と映画に行くと言ったら、ホストファミリーがなんて言うだろう。
と、咄嗟に、映画館までは、ホストファミリーに送ってもらうから大丈夫。
と言ってしまいました。その日から金曜日まで、断るチャンスはありましたが、その女の子が盛り上がってしまい、どーにも、こーにも、言い出せない そして、金曜日になってしまいました。
ホストマザーが、今日は、誰と、どこに行くの?と聞いて来ました。
どうしよう、、、正直に話しました。その子の名前を聞いたお母さんの顔が、一瞬曇ったのが、今でも忘れられません。
はなは、その子と付き合いたいの?
いや、断れなかった、だけ。。
その人が云々、と、言う以前に、どう見られるか分かっていたから。
当時のアメリカ南部の田舎町の常識。
同じ人種同士しか、お付き合いしない。
That’s just the way it was…
お母さんは、即答で、
行かなくても良いわよ、彼は分かってくれる。行かなければ、そう言う意味って。
お母さんは、ウインクして、「貴方は、たった今、外に出てはいけないことになったわよ、月曜日、そう、言い訳しなさい」と、言ってくれた。
→アメリカのティーンがバツとして、良く食らう、外出禁止令である。。
その子が黒人じゃなかったら、お年頃なんだから、誘われたことを、一緒に喜んでくれたに違いないし、映画館まで送ってくれたと思う。
そこには、屈強な信念に支えられた強い壁があった。それが当時のアメリカ南部の田舎町の現実。
月曜日。怒ったチアリーダーの子が、ロッカーで待っていた。
彼、ずっと待ってたのに、どうして?
外出禁止を食らって、家で弟達の面倒見なくちゃいけなくなったの。電話番号、聞いてなくて断れなかった。ごめんなさい。
優等生の貴方が、どんな理由で外出禁止?
もう、良いっ。
なんで、バードなんて、あげたの?
凄い剣幕で歩き去って行った。でも、、
英語が良く出来ない外国人留学生の女の子が、知らなかったから、間違えちゃった、と言う風にしか、みんなには映らなかった。実際、そのチアリーダーの子も、しばらくしたら、忘れて、普通に仲良くしてくれた。
立派な差別なのに、あの時の私は、差別した自覚さえも、更に、約束を果たせないと伝えると言う、人としてのマナーさえ、なかった。
ってな大昔のことを、先日のブログに上げた、
「Changes」を聴いていて、思い出しました〜。
後に、アジア系人種として様々な差別待遇を経験した、「今」の私が当時の私に戻ったとして、、
一緒に映画に行って、送って貰って、
驚くホストファミリーに、
バスケやってて、いい友達になったんだ❗️
映画も楽しかった〜
って普通に話せたかも知れない。
周りにドン引きされても。
人種や性別で差別されると言う実体験、
もしくは、「人を差別することが、
実は自身の尊厳を下げるものになる」
と言う根気のいる教育が、
偏見に巻かれないで、
行動する強さを支える。
と、母親になって改めて思う。
そして子供達は、大人の振る舞いを
驚くほど良く見ている、とも。
過去に傷付けた人を見つけ出して、
謝ることが出来る時と、
遅すぎる時がある。
あの時の私の行動は後者で、
今は、そのことを思い出して、
プライドを持った大人として、
どう毎日、振る舞うのか、と、
襟を正すこと、くらいしか出来ない。
「Changes」で繰り返されるフレーズは、
That’s just the way it is
現在形。
でも、私がこの話を語る時、あえて、
it was
過去形、になってると良いな、なんて思いながら綴りました。
まー、世の中、
そんなに甘くないんですが