憧れのヨーロッパ陶磁 -マイセン・セーブル・ミントンとの出会い-@京都国立博物館 | まどりんのーと

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夢は一流の女であること

        ミントン


ドイツ・ポスター展の次は、ヨーロッパ陶磁展
に行ってきましたラブラブ



ヨーロッパ陶磁って、実は日本の陶磁器と深い関係があるのです目



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「やきもの」の生産に関しては、東洋は圧倒的に先進地域でした。

だから、16世紀半ばにヨーロッパ人が日本へ来航するようになっても、

当初は西洋からの輸出品として陶磁器はさほど注目されませんでした。

しかし江戸時代も後期になると、相当量のヨーロッパ陶磁が輸入されるようになります。



幕末まで、日本はオランダ以外の西洋世界との交流を絶っていました。

「阿蘭陀・和蘭・紅毛」という言葉は、オランダだけでなく西洋世界をさす

言葉として使われるようになり、日本へ持ち込まれたヨーロッパ陶磁は、

実際にはオランダ製でなくても、「阿蘭陀焼・和蘭焼・紅毛焼」

呼ばれました。建仁寺
や二軒茶屋などに伝えられたヨーロッパ陶磁から、

京都と長崎貿易やオランダ商館との意外な繋がりが窺えます。



明治時代の日本政府は、西洋の先進的な工業技術を吸収するべく

人材を派遣し、同時に工芸品の収集にも力を注ぎました。

しかし、1873年開催のウィーン万博での収集作品を載せたニール号は、

伊豆沖で沈没してしまいます。これを伝え聞いたサウス・ケンジントン博物館

(現在のヴィクトリア&アルバート美術館
)館長フィリップ・カンリフ=オーウェンは、

日本へのヨーロッパ工芸品の寄贈を呼びかけました。ミントンやドルトン、

ロイヤル・ウースターなど、寄贈品のヨーロッパ陶磁を携えて、工芸デザイナーの

クリストファー・ドレッサーが来日したのは、明治9年(1876)。政府に歓待されて

日本各地を見た彼は、その視察成果を帰国後の陶器作りに活かしました。



19世紀後半、ヨーロッパにおける陶磁器生産を主導する立場にあった

セーヴルは、当時の日本人陶工にとって大変気になる存在でした。

しかし、セーヴル焼は大変高価であったため、1878年のパリ万国

博覧会で一対の壺を入手するためだけに、なんと69点もの日本の

古陶磁と引き換えねばなりませんでした。明治時代の京焼陶工は、

しばしば瑠璃地に金彩の洋食器や飾壺を作りましたが、

これは、セーヴルが得意とした装飾手法を強く意識したものと思われます。



明治29年(1896)に京都の五条坂に開設された陶磁器試験所の初代所長

藤江永孝、京都高等工芸学校設立の準備をしていた中沢岩太とともに、

アール・ヌーヴォーに席巻された1900年のパリ万国博覧会へ足を運び、

大きな衝撃を受けました。彼らが研究・教育用の参考資料として収集に

努めた西洋陶磁は、陶磁器試験所の流れを汲む産業技術総合研究所

や、京都高等工芸学校の後身である京都工芸繊維大学に、

今も多数保存されています。



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実は洋食器収集に興味のある私は、今回の展覧会は先日のドイツポスター展よりもずっと行きたかった展示会でした音譜

ウェッジウッドのワイルドストロベリーのティーカップが一番のお気に入りですコーヒー

(まぁ、自分で買った食器はこれしか持ってないけどねっ汗

ウェッジウッドの中にもいろんな種類があるし、他にもリチャード・ジノリとか

ロイヤルコペンハーゲンとかマイセン、ミントンetc...

本当に欲しい物は挙げたらキリがないです得意げ

こうやってネットで物色しているだけでも欲しくなってきました(;・∀・)

買い集めたいなぁラブラブラブラブ