私は甘いものが好きですが、お菓子作りはあまり手を出していません。パウンドケーキだけは昔からしばしば焼きます。

好きなのはバナナケーキにシナモンやカルダモンを足したり、キャロットケーキにも同様にジンジャーやその他スパイスをを足して香りをつけたものです。


昨日はまたこんがり茶色いバナナケーキを焼きましたが、茶色つながりで以前読んだ「茶色の朝」という本について書きたいと思います。ヴィンセントギャロの挿絵もなかなか素敵な本ですが、内容は短いけれどとても重いです。

 

 

本は一度読んだ後も何度も何度も思い出すものもあれば、内容を全く思い出せなくなってしまうものもありますよね。この本は私にとっては前者で、今回も唐突に思い出したわけではなく、イタリアの労働者にグリーンパス義務づけというニュースを目にしてまた思い出したのでした。

 

この本は1998年にフランスで発行されました。もう20年以上も前で、当時フランスで極右政党が台頭していたことへの抗議として書かれた背景があり、2002年の大統領選挙をきっかけに広く読まれることになったのだそうです。邦訳が出版されたのは2003年です。

 

全体主義や国家主義、それからファシズムと呼ばれるような、国家や権力による個人の監視やコントロール(内面も含む)というのが静かにやってくる中、人は少しずつの違和感を感じつつも日々の生活にかまけて、目先の過ごしやすさを優先し、周りの空気に何となく合わせてやり過ごしているうちに、ある日後戻りできなくなり、そこで初めて今まで反対したり行動を起こさなかったりたことを後悔するがもう遅い、という結末になっています。なぜ茶色なのかを含め、この本に関する解説や感想はたくさんの人がネット上に書いていらっしゃるので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

 

ここに書かれていることはいろいろな場面で当てはまることがあり、何か違和感を感じることがある時にふと思い出します。日本の政治に当てはめて解説してくれている人もいます。やばい法律がなし崩し的に作られていった数年前のこととか。

 

今回改めてここで書いてみようかなと思った例で言えば、コロナ禍でなければ人々が簡単には容認しなかったであろう政策がしばしば施行されていますよね。ワクチンパスポートの義務化とか、そういったことは一つの例だと思います。

 

ワクチンパスポートの義務化一つをとっても、少し違和感を感じないこともないけれども、(今のイタリアでは)それがないと日常生活が不便になるし、あとはどちらにしても自分はとりあえず摂取済みだし、という自分本位な考えもきっとあって、まさに「少しずつの違和感を感じつつも日々の生活にかまけて、目先の過ごしやすさを優先してやり過ごしている」状態といえばそうなのではないか、と思ったりもします。イタリアで一時的に移民という立場になっている自分からすると、もし自分が強くこの制度に反発する気持ちを持っていても、今ここで何らかの行動を自分が取るということは考え難いですが、では日本でもしこの話が真剣に議論され始めたとしたら、私はどういう判断をしてどういう行動を取るのだろう。

 

自分でいろいろ考えた結果今回はワクチン接種するということを「自分で選択した」と思っているけれど、そこに至るまでにはおそらく情報操作や世の中の空気の影響も受けているだろうし、とか。

 

問題なのはワクチンパスポートの義務化ということそのものなのではなく、何か危機的な状況が起きた時には結構強いリーダーシップ(や権力)を期待してしまうと思うし、実際ある程度そういうものが必要な場面が間違いなくあると思うのですが、思考停止した状態で手放しでそれを歓迎していると、気がついた時に、あれこんなことまで?そういうレベルまで?ということが起こり得るということなのかなと思います。過去の戦争やナチズムに関してもこういった考察はよくされていますね。

 

また、過去と違う点として、情報に関する技術発展が、特に新しい形での全体主義を広げる一因となっているという負の側面があるということもいろいろな人が指摘しています。膨大な情報を集めることが昔より容易になり、情報やデータが集中するところには権力や支配力が集中するわけで。。。そしてその支配の主体は必ずしも政府だけではなく、誰もが知っている超巨大IT企業など、だったりもするのですよね。。。

そして、私たちは、いろいろな情報を、時には知らぬうちに、時には好き好んで(SNSとかで)差し出してしまう時代です。

商業的なマーケティング活動にはとっくに利用されている私たちの行動や内面に関する膨大なデータが、政治的なキャンペーン(必ずしも政府が主体であることを意味しません)に使われていないはずはないですよね。。。

 

私を含む多くの人にとってはこういうこと全てを四六時中徹底的に考えながら生きていくことはとても苦しいし不可能なのではないかと思います。

そうすると最低限できることは、自分は愚かだし完璧ではなく矛盾も抱えている人間であり、情報に流されて判断を誤ることもあるし、自分で自分を納得させるために誤魔化す(「やり過ごす」)ことがある可能性もある、ということをちゃんと自覚することなのかな、と思います。特に、いろいろな物事について自分が多数派と呼ばれる考えを持っているとき、もしくは特に深く考えずともそういう行動をとっているときこそ、本当にそうなのかという問いを忘れないバランス感覚のようなものが必要かなーと。

そして、違和感に気づいた時にはちゃんと考え、できれば行動することが必要なのだろうと思いますが、言うはやすし、、、なのですけどね。。。

 

少なくとも、日本はまだ行動することが許されている国のはず。。。なんですけど。。。ちょっとここ数年の色んなニュース見てると不安になる点もあるけど。


甘いケーキを食べながら、甘くない話を考えた週末でした。

お読みいただきありがとうございます。