敦賀行きのはくたかに乗って長野へ。
おばが急逝した。
連絡があったのは会津へ向かう列車の中だった。
野岩鉄道でべそかいてた。
我が一族にとって偉大なおばであった。
波瀾万丈な人生だったけど、思い出すのはおばの笑顔。
昔お店をやっていたおば夫婦。
私たちが横浜から帰省してお店と工場の間にある小上がりで待っていると奥の工場からパタパタパタパタ~って小走りでやってきて『あらぁ~ごくろうさん』
おばのところの平べったい揚げみたらし団子が大好きで、子供のわたしは1本で充分だったんだけど、おばはいつもたくさん包んでくれた。
千曲川の洪水で被災する前までは毎年おやきを送ってくれて。道具も何から何まで流されてそのあと食べることはなかったけど、今でもおばのおやきがいちばん好き。もう、あのおやきもりんごもシャインマスカットも届かない。そう母と話して号泣した。
おととし、わたしの父の一周忌。
横浜で済ませました。って終わりにもできたけれど、コロナで葬儀にも出れない、手を合わせたくても高齢で横浜に簡単には来れない。姉弟の最期に会えず、手も合わせられずなんて考えただけで胸が締め付けられた。
いとこたちにも協力してもらって、一周忌は長野で行った。これだけは本当に会わせてあげられて良かったなと心から思った。このとき、わたしがおばに会う最後の機会となった。
長野駅から斎場のある駅に向かっていると、雨がぼたん雪になった。
涙雨ならぬ涙雪。おばの偉大さがこの粒の大きな雪になったんだなと思ったらまた泣けてきた。
出棺のとき、姪から孫まで全員手紙を書いてきてた。
こんな人いる?全員だよ?
死んだときに人と成りがわかるとはこうゆうことをいうのだ。みんなおばちゃんからの愛情をしっかりと受け止めていたんだね。