◆【今朝の学び】「恥に代えて二倍のものを(1)」新・創世記の学び(57)

今日は「新・創世記の学び」の57回目です。

創世記21章から、「恥に代えて二倍のものを(1)」というテーマで学びます。

この学びが私たちにとって大いなる喜びとなり、生きた教訓となりますように、祈ります。


<約束の子イサクの誕生>
前回、私たちは「繰り返された失敗」というテーマで学びました。

再度繰り返されたアブラハムの失敗により、サラの身が危うくなりました。

しかし、主はそこからサラを助け出して下さり、今日学ぶ箇所では、いよいよ約束の子が与えられます。

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創世記 21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。

21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。

21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」

21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
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しばし、これらのみことばを味わいましょう。

では、順番に読んでいきます。

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創世記 21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
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ここには、「サラを顧みて」と書いてあります。

「アブラハムを顧みて」ではありません。

聖書は多くの場合、男性を中心に書かれていますので、「サラを顧みて」というこの箇所は不思議な記述です。

実はこの箇所は、サラに対する主のあわれみです。

主はサラの従順に目を留めてくださり、子どものできない彼女の悩みと悲しみに答えてくださったのです。

でも、「サラの従順」と言うと、納得しかねる人がおられるかもしれません。

ご承知の通り、サラは夫のアブラハムに対して、はっきり物を言うタイプの女性でした。

単なる夫の言いなりになるような女性ではなかったのです。

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創世記 16:4 彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女
奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
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でも、このように、はっきりと物を言う一方で、サラは従順な女性でした。

彼女は夫アブラハムの方針に従って自分をアブラハムの妹と称し、あやうくパロやアビメレルのハーレムに入れられそうになりました。

しかしその際、サラはアブラハムに一言の文句も言いませんでした。

ひたすら黙って、事の成り行きを夫に委ねました。

全く素晴らしい信仰ではないでしょうか?

神様は、サラの信仰と従順に答えてくださり、2回とも、すんでのところで彼女を救ってくださったのです。
パロとアビメレクの事件を霊的な角度で見れば、確かに、このことは「悪魔の攻撃」でした。

これらの出来事は、アブラハムの妻であるサラを他の男のものとすることで、イエス・キリストにまで至る系図を破壊しようとする悪魔的な企みであったからです。

もちろん神様が、そのような攻撃を許されるはずはありません。

神様はサラを守ってくださり、後には、お約束どおりに九十才のサラに男の子が与えられました。

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創世記 21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。

21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
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さて、ここに「神は私を笑う」とあります。


<神様の約束は必ず実現する>

思い出してみましょう。

アブラハムもサラも、二人に子どもが与えられる、という神様のお約束を聞いて信じることができず、「いや、そんなこと」とばかりに笑いました。

まずアブラハムの反応を見ましょう。

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創世記 17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」
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アブラハムは神様のお約束を笑ったばかりか、「いや神様、イシュマエルが居ますよ」と言いました。

そのように、全能の神様に対してアブラハムは全く愚かで人間的な提案をしました。

次に、サラの反応を見ましょう。

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創世記 18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。

18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。

18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」
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これが、神様の約束に対する二人の反応でした。

それは、喜びの笑いではなく、「ふふふ」という疑いの笑い、つまり「せせら笑い」でした。

神様に対して何と不敬虔な反応でしょうか!


ところが私たちも、我が身のことを考えると、案外これと同じような失敗をしているのではないでしょうか?

私たちが聖書のみことばから、素晴らしい神様のお約束を示された時、「いや、ちょっと、それは信じられません。

私にそんなことは起こり得ません」と考えてしまいがちです。

でも、それは「間違った謙遜」です。

神様は全能のお方です。

神様にとって不可能なことは何ひとつありません。

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ルカ 1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。
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しかしアブラハムとサラは、神様のお約束に対して、せせら笑ったのでした。

このように不信仰な二人に応えて、神様はどうされたでしょうか?

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創世記 21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
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サラは次のように言っています。

「誰がアブラハムに、サラが子どもたちに乳を飲ませる、と預言することができたでしょうか?

誰もいません。しかし私は、あの年老いた夫のために子を産みました。」

この言葉からサラの喜びが伝わってきます。

何と彼らは、25年も待った末に、約束の子が与えられたのです。

このように、神様の約束は必ず実現します。


さて、ここには、生まれてくる子に対して、「子ども」と「子」と二つの表現が出てきます。

最初の方は「サラが子どもたちに乳を飲ませる」、つまり「子ども」と複数形です。

これは、イサクから多くの子孫が生まれ出ること、つまり、サラが「イスラエル民族の母」となることを意味しています。

確かに神様は、創世記 17 章 16 節でサラのことを「国々の母」とおっしゃっています。

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創世記 17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
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その意味でサラは、誰がアブラハムに「サラが子どもたちに乳を飲ませる」と預言することができたでしょうか?と複数形で語っているわけです。

そして、その先駆けとして、最初の一人の子であるイサクを得た、と単数形を使っています。

つまりサラは、イサクを先駆けとして、これから素晴らしいことが起こります、と喜びの証しをしているのです。


<神様は意地悪なお方?>

このことを押さえた上で、先ほど、読んだ創世記21章6節に戻りましょう。

ここには少し問題なことが書かれています。

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創世記 21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
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いかがでしょうか?

イサクには、「笑う」という意味がありました。

ですから神様も、神様をせせら笑ったアブラハムとサラを、「せせら笑われる」のでしょうか?

神様って、そのように意地悪なお方なのでしょうか?

もちろん違います。

このことは、先日、少し学びましたが、明日はこの点を、再度、詳しく学びたいと思います。

そこを読めば、「神様は何と素晴らしい愛のお方でしょうか!」と御名をほめたたえることができるでしょう。

ハレルヤ!



※過去の学びはこちらで読むことができます。

<ローマ書学び>
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<ヤコブ書学び>
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<新・創世記の学び>

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