◆【今朝の学び】「まことのいのちを得るために」第一テモテ 6:13-16

今日は第一テモテ6章から学びをしましょう。

テーマは「まことのいのちを得るために」です。

なお、今回をもって第一テモテの学びは終わりになります。

次回は、第二テモテに入ります。

今日の学びに入る前に前回の復習をしましょう。


<前回の復習~真理に属する者>

前回は「真理に属する者」というテーマで学びました。

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第一テモテ 6:13 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。
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まず、「すべてのものにいのちを与える神」と書いてあります。

神様は、すべてのものに「いのち」をお与えになることがおできになります。

それは、神様が生殺与奪の権を握っておられる「主権者であられる」ということです。

「神様、イエス様は我々の主権者」、このことをまず押さえておきましょう。

そして「ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされた」と書いてあります。

イエス様は、かつてピラトと次のようなやりとりをされました。

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ヨハネ 18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。

「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」
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イエス様は、はっきりと語られました。

「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

「真理」とは、もちろん、イエス様ご自身です。

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ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
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そのように、真理そのものであられるイエス様に、人間が「属すること」が大切です。

「イエス様に属する者」は、イエス様の声に聞き従います。

そのことは、「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」と書いてあった通りです。

この点に関して、ピラトは中途半端な者でした。

ですから、「真理とは何ですか?」という問いを発していながら、その答えを聞かぬまま、外に出て行きました。

ピラトは「私は、あの人には罪を認めません」と言っておきながらも、彼はユダヤ人を恐れました。

そして最終的に、ピラトはイエス様をユダヤ人たちに引き渡してしまったのです。

つまり、「ピラトは真理に属していなかった」ということなのです。


ひるがえって、私たちはどうでしょうか?

第一テモテから、次のみことばを読みましょう。

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第一テモテ 6:14 私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。
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「私たちの主イエス・キリストの現われの時まで」とは何でしょうか?

これは、「携挙の時まで」ということです。

その時まで、真理に属する者、つまりイエス様に属する者は、イエス様のご命令に聞き従って歩むのです。

そして、「聞き従うべきイエス様の声」とは、ずばり「みことば」です。

みことばに従う結果として、はじめて私たちは、「傷のない、非難されるところのない者」とされます。

そして、携挙の時には天に引き挙げられるのです。

ですから、教会で良く言われるように、「すべてのクリスチャンが携挙にあずかる」というわけではありません。

携挙で挙げられるのは、あくまでも「みことばに従う者だけ」です。

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ヨハネ 14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
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私たちは、もちろんイエス様を愛しています。

でも、「イエス様を愛する者は戒めを守る」と言われて、「うーん」と困ってしまう人もおられるでしょう。

しかし、大丈夫です。

みことばに完璧に従うことは、生まれつきの私たちには不可能なことなのです。

でも、だからこそ「助け主」が私たちに遣わされました。

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ヨハネ 14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
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このお方が、「大丈夫、わたしがするよ。任せなさい」とおっしゃっています。

聖霊様は、私たちを助けてくださり、みことばに従うことができるように導いてくださいます。

ところが、ここで私たちは迷ってしまうのです。

聖霊様は「右だ」とおっしゃるのですが、私たちは往々にして、「いや、左に行きたいです」と思ってしまいます。

ここが私たちの明暗を分けます。

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ローマ 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
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この14節を、じっくりと見てみましょう。

14節を逆に読むと、「神の御霊に導かれない人は、だれでも神の子どもと呼ばれません」ということになります。

そうなのです。

問題は、「聖霊様ではなく、自分の思いに従いたい」という信者があまりに多い、ということです。

ところが、それこそ「真理に属さない者」であり、みことばに従わない者となってしまいます。

せっかく「助け主」であられる御霊様が来られたのに、「肉に従って歩みたい」と切望します。

「いや、今は、そのみことばに従いません。

私は、とにかく、あれとこれとをしたいのです。」

と言って、自分の肉に従います。

たとえば、「あの人だけは絶対に赦さない」とか、あるいは「この罪は手放したくない」という態度です。

私たちは、それらのことを「小さなこと」と考えてはいけません。

それは、「イエス様の主権を認めない罪」であるからです。

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第一テモテ 6:15 その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、

6:16 ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。
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神は祝福に満ちた唯一の主権者であられ、私たちの王、そして主であられます。

ですから、いつも言っています通り、私たちの心の王座から、私たちの肉を追い出さなければなりません。

そして、聖霊様が私たちの心の王座に座っていただかなればなりません。

私たちが、肉ではなく、聖霊様に導かれるなら、私たちは自然に、みことばに従う者となります。

イエス様のお迎えは極めて近いです。

Jesus Is Coming Soon!


ですから私たちは、イエス様の警告を真っ直ぐに受け取りたいものです。

イエス様は、次のようにおっしゃっています。

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マタイ 7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
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「狭い門から入る者はまれである」とイエス様は語っておられます。

いかがでしょうか?

つまり、携挙にあずかる者は「まれ」なのです。

私たちは、みことばに気を引き締めなければなりません。

そのために「イエス様の主権」を認め、肉を心の王座から追い払うこと。

今日は、この続きを学びましょう。


<まことのいのちを得るために>

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第一テモテ 6:17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。

6:18 また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。

6:19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。

6:20 テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。

6:21 これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。
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しばし、これらのみことばを味わいましょう。

では順番に読んでいきます。

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第一テモテ 6:17 この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。
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このことは、パウロがテモテへの手紙で一貫して注意している「富に注意しなさい」ということの言い換えです。

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ルカ 16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富(=マモン)にも仕えるということはできません。」
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この箇所をKJV(キングジェームズバージョン)で読むと、富はマモンと書いてあります。

マモンとは金を通して誘惑して来る悪霊です。

そのようなものに、私たちが望みを置いてはなりません。

「むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」と書いてあります。

そうなのです。

神様は、私たちに必要なすべての物を豊かに与えてくださいます。

それは、「私たちが欲しているもの」ではなく、「私たちに必要なもの」です。

必要なすべての物を豊かに与えて、私たちを「楽しませて」くださいます。

その神様に、私たちは望みを置きましょう。

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第一テモテ 6:18 また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。
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「人の益を計り」と書いてあります。

神様は、「すべてのことを働かせて益としてくださるお方」です。

そのお方にならい、私たちも人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えることができますように。

そのことは、私たちが自分の自我を心の王座から追い出し、聖霊様に座っていただくことを通して実現します。

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第一テモテ 6:19 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
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このみことばが、今日の学びで最も重要です。

なぜなら、「まことのいのちを得るために」と書いてあるためです。

「まことのいのち」とは、「この世のいのち」(=生まれつきのいのち)ではない「永遠のいのち」です。

天の御国でイエス様と永遠に生きることのできる「まことのいのち」です。

この「まことのいのち」が得られないなら、どんなことも無意味です。

では、この「まことのいのち」を得るために、私たちはどんなことを実行すれば良いのでしょうか?

みことばの後半には次のように書いてあります。

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第一テモテ 6:19 (後半)未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。
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「未来に備えて」ですから、これは私たちがやがて行く「永遠の世界」のことを言っています。

その「永遠の世界」のための備をすること、そのために「良い基礎を自分自身のために築き上げるように」と書かれています。

ところが、ここには「良い基礎を自分自身のために築き上げる」ために、具体的に何をするのかが分りません。

そのような時には、聖書から「まことのいのち」を検索してください。

すると、そのことがマタイ伝に書いてあります。

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マタイ 16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
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そして、その前に、私たちが「まことのいのち」を得るための方法が書かれています。

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マタイ 16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
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このイエス様のみことばによれば、私たちが「まことのいのち」を得るためには、まず「人のこと」ではなく「神のこと」を思うこと。

つまり「自分の思惑」「自分の都合」「自分の判断」を第一にすることをやめて、「神様のみこころ」「神様のご判断」を第一とするということです。

そのために私たちは、イエス様について行きます。

単なる群衆としてゾロゾロとついて行くのではなく、弟子としてついて行きます。

そのために私たちは、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス様について行きます。

「自分を捨て」とは、「自分の思惑」「自分の都合」「自分の判断」を捨てること。

そして、「自分の十字架を負う」とは、「私たちの肉を十字架につける」ということです。

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ガラテヤ 2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が、肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の信仰によっているのです。
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私たちが自分の肉を十字架につけ続ければ、内なる聖霊様が生きて働かれます。

その時、私たちの「まことのいのち」は確実なものとなっていきます。

そして、そのことを妨げるものへの注意が、最後になされています。

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第一テモテ 6:20 テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。

6:21 これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。
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「ゆだねられたものを守りなさい」とありますが、「ゆだねられたもの」とは「みことば」です。

「みことば」を大切に守り、「まちがって霊知と呼ばれる反対論を避けること」と書かれています。

「霊知」とは当時、盛んであった「グノーシス主義」です。

「グノーシス主義」については、今まで何度かお話しましたので、詳しくは説明しませんが、いわゆる「カルト」の教義です。

現代のキリスト教界も、カルトとまでは言えないものの、有害な教義があふれていますので、私たちは注意しなければなりません。

そのような有害な教義により、信仰からはずれてしまう者が多くいるからです。

今はラオデキヤ教会の時代です。

ただ、みことばに立ち、テモテへの手紙で学んだことを忘れずに、真っすぐに歩んでいきましょう。

ハレルヤ!



※次回は第二テモテの学びに入ります。

過去の学びはこちらで読むことができます。

<ローマ書学び>
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