◆【今朝の学び】「神と言い争う者」ルカ20:19-26

前回からルカ伝の学びは20章に入っています。

今日のテーマは、「神と言い争う者」です。

その前に、前回の復習をしましょう。


<前回の復習 ~ 石の上に落ちる>

前回は「石の上に落ちる」というテーマで学びました。

「石の上に落ちる」とはどういうことだったでしょうか?

それは、「イエス様の上に落ちる」ということであり、「みことばの上に落ちる」ということでもあって、「心砕かれること」を意味しました。

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ルカ 20:17 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。

20:18 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」
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「家を建てる者たちの見捨てた石」とは、イエス様ご自身であり、十字架を意味していました。

ところが、そのイエス様がご復活によって勝利され、それが「礎の石となる」ということです。

つまりイエス様が、異邦人の救いと、イスラエルの最終的な救いのための礎となられる、ということです。

このように、十字架とご復活が世界の救いの礎であり、私たちの救いの土台です。

私たちが石であられるイエス様の上に落ちる時、私たちの心は砕かれます。

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ルカ 20:18 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。
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「イエス様の上に落ちる」とは、イエス様の御手に捕らえられる、ということでした。

その時、その人の心は砕かれますが、その痛みは救いに至る痛みです。

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イザヤ 57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。

へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
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その人はイエス様と共に永遠に生きることができます。

逆に、イエス様の御手から逃れようとする不信仰な人には、イエス様という石が、その人の上に落ちて来ます。

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ルカ 20:18 (後半)またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。
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これは「神様の怒り」を意味していました。

そして、その先には永遠の滅びが待っています。

地獄の炎で、反抗に満ちた心(=自我)が「粉みじんに飛び散らされる」ためです。

ですから私たちは、そうならないために、私たちの自我を、心の王座から追い払わなければなりません。

そして、聖霊様に私たちの心の王座に座っていただかなければなりません。

そのためにも、私たちは「神様と言い争わないように気を付けなければならない」ということでした。

そして今日の個所です。

今日の個所でも、神様と言い争う人々が登場します。

もちろん神様と言い争っても勝ち目はなく、イエス様は彼らを完璧に論破されます。


<神と言い争う者>

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ルカ 20:19 律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとしたが、やはり民衆を恐れた。
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律法学者や祭司長たちは、「この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまう」という言葉が、自分たちを指していると気づきました。

そこで悔い改めればよかったものの、彼らはなおイエス様に反抗しました。

そしてイエス様を言葉の罠にかけるためにスパイを送り込みました。

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ルカ 20:20 さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。
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「間者」とはスパイのことです。

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ルカ 20:21 その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。

20:22 ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」

20:23 イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。

20:24 「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。

20:25 すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

20:26 彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。
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もう何の説明の必要もありません。

「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

神様にしかおできにならない完璧なお答えです。

彼らはイエス様のお答えに驚嘆して黙ってしまいました。

このように、私たち人間なんぞが神様と言い争っても全く無駄なことです。

完璧に論破され、打ち砕かれてしまいます。


ところが私たちは、あんがい、神様と言い争っていないでしょうか?

神様が「右だ」とおっしゃるのに、私たちは「いや左です」と言いがちです。

私たちの「みことばに対する態度」は、往々にして、そのようなものです。

みことばに「あれはいけない」と書いてあるのに、それを無視して、してしまいます。

あるいは、みことばに「これをしなさい」と書いてあるのに、それを無視して、しません。

その原因は、「その人の自我が、自分の心の王座についている」ということです。

ですから、生まれつきの肉なる人は、ことごとく「自分の我」を通そうとします。

そして、私たちの先祖が「善悪の知識の木の実」を食べた結果として、すべての人間は神様と言い争います。

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創世記 3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
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その最たるものがイスラエル民族です。

「イスラエル」にはどのような意味があるか、ということです。

まず「イスラ」には「戦う」という意味があります。

そして「エル」には「神」という意味があります。

つまり「イスラエル」とは、「神が戦う」すなわち「神ご自身が戦ってくださり守ってくださる」という祝福の意味があります。

イスラエル民族は、そのように神様から特別に愛され、祝福された民族である、ということです。

ところが、「イスラエル」という言葉は、これと正反対の意味にもなり得ます。

「神が戦う」という意味と同時に、「神と戦う」という意味にもなり得るのです。

つまりイスラエルとは、神様に守られる一方で、「神と戦う民族である」ということです。

旧約聖書を読めば、彼らの歴史は「神様への反抗の連続」であることがわかります。

これに対して、神様はイスラエルを愛し、多くの預言者を遣わして導こうとされたのに、彼らは常に神様と戦う、うなじの強い民でした。

そのあげく、イスラエルは御子イエス様を拒み、十字架につけて殺し、今もなお神様に反抗し続けています。

このように、イスラエルは「神と戦う民」であったのです。

ところが創世記には不思議な記述があります。

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創世記 32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
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「その人」とは、人の姿を取ってヤコブと格闘されたイエス様(受肉前の)を意味します。

そのお方が、「あなたは神と戦い、勝った」とおっしゃるのです。

これは、どういうことかといえば「十字架」を意味します。

神様は私たちに、無理強いなさるお方ではありません。

頑なな私たちの自我をねじ伏せるようなことはなさらず、かえって神様の方から負けてくださいました。

そのように、神様が私たちに負けてくださった場所こそ、「十字架」なのです。

全く何の罪もないイエス様が、悪そのものの私たちの身代わりとして死んでくださいました。

そのように、天のお父さんの御前で、「わたしがすべて悪かったのです」と頭を下げてくださいました。

もしイエス様が私たちに負けず、逆に私たちに打ち勝たれたのだったら、すべての人類は地獄行きでした。

しかし、神様の側で負けてくださり、イエス様お一人ですべての罪を犯したものとして、罪の呪いを引き受けてくださいました。

ですから信じる私たちの罪は赦され、贖われます。

このように、十字架はイエス様が負けてくださった場所です。


<人間は2つのタイプに分かれる>

イエス様は十字架の上で、とりなし祈ってくださいました。

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ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
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このようなお言葉は、神様しか発することができません。

罪ある人間には、とうてい出すことのない言葉です。

結局、このお言葉の前に私たち人間がどのような態度を取るか、ということです。

ここで人間は、二つのタイプに分かれます。

一つは、十字架の下でイエス様の着物を取り合い、くじを引くような者です。

一つは、十字架のイエス様のお言葉を聞いて心砕かれた犯罪人のような者です。

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ルカ 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
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この心砕かれた犯罪人は、すべての罪が赦されてパラダイスに行きました。

彼こそ「石の上に落ちた者」でした。


<弱さを思い知ったヤコブ>

さらに言えば、神の人と戦ったヤコブも「石の上に落ちた者」でした。

ヤコブは、彼の力の源泉である「もものつがい」を神様から打たれ、後にびっこをひくようになります。

そこではじめて自分の弱さを思い知ったヤコブは、神の人にすがりつき、泣いて祝福を願いしました。

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創世記 32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
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そして私たちもまた、人生の数々の苦難を通して自分の弱さを思い知り、「もものつがいを打たれた者」なのです。

それこそ、「石の上に落ちて心砕かれた者」の幸いです。

私たちが、本当の意味で心砕かれた時(=自我が砕かれた時)、はじめてイエス様の十字架がわかります。

弱さを思い知ったからこそ、私たちは十字架に感謝し、神様と争うことを止めて、頭を下げました。

「自分の弱さを知ること」、これが私たちの救いです。

へりくだって頭を下げるなら、神様の力(=聖霊の力)が私たちを満たします。

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第二コリント 12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
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「私が弱いときにこそ、私は強い」、このことは、私たちの自我が心の王座から追い出された時に起こります。

その時、聖霊様が私たちの心の王座に着かれますので、私たちには「聖霊の力」が満ちます。

今日も私たちは、その「聖霊に力」に満たされて、力強く歩んでいきましょう。

ハレルヤ!



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私弱すぎる