「やぁ皆、今日は来てくれてありがとう・・・・・・。
見て判るとおり、僕等は君達を人質としてここに置いている。
------何故って、捕まりたくないからに決まってるじゃないか。
だから僕等が逃げ切れればもう君たちに用は無いし、傷付けるつもりもない。
だから、それまではどうか大人しくしていてくれ。判るよな?」

いきなり教室に駆け込むなり彼等はそんな事を言う。
やっぱり今日は運が無いな、と麻美は思う。
思えば朝から可笑しかったのだ。
交差点でトラックに引かれそうになるし、靴と上履きを履き替える時に画鋲を踏むし。
健康家で知られる友人の小早川奈津美はインフルエンザで欠席するし。
何事にも兆候は存在するものだと言うが、まさかこんな事になるなんて思わなかったナ。
そんな事を呆けた顔で考えながら、この状況を他人事の様に観察する。
如何やらこの集団はテロリストらしい。
殆どが黒い覆面を被っていたが、唯一一人だけ顔を晒している男が居る。
多分この男がリーダーなのだろう、彼は周囲の仲間に小声で指示を与えていた。
小顔で、赤毛で、瞳はブルーだった。
外人だろうか・・・・・・耳を澄ますと、彼等は日本語では無いそれで会話をしていた。
しかし最初の文句を言えた辺り、日本語もかなり流暢に使えるようだ。
状況の把握が終わったのか、彼等は10名ほどを割いて教壇の上で機材を弄り出した。
恐らくは通信か放送のための機材だろう、アンテナやカメラを教卓に設置している。

「おいお前、何見てるんだ。
・・・・・・丁度良い、こっちへ来い」
何故か彼等は私を指差し教壇の上へ行くよう促す。
私は何故そうなるのか判らずに、はぁという顔をして固まる。
動かない私の腕を掴み、つかつかと小走りに前へと引っ張ってゆく。
何故何故何故ナゼナゼ?
何で私はこんな役目を負わなきゃいけないの?
今私は何か悪い事をしたの何か原因があるのナゼ何故なぜ?
「さぁ、来るんだ。大人しくしていろよ?」
彼はそう言うと私の頭に銃身を押し付け、もう一方の手で肩を押さえる。
すると相対していた彼の仲間がオーケイと言い、それを合図に私達にカメラが向けられる。

「あーあーあー、聞こえているか馬鹿共?
俺達はブラッドレイと言う組織の下っ端だ。
先日俺達の国へ手前らの自衛軍だか何だかの軍が押し寄せてきた。
別段その事はいい、こちらの国に手前らの排除すべき何かがあったなら仕方が無い。
だがな、それは国民じゃなかったはずだ、そうだろう?
それなのに手前らは国民の住居を焼き払って彼等を殺した挙句、
収容所に捕虜として監禁してるそうじゃないか?
何故そんな事をする?それに一体何の意味がある?
俺達ブラッドレイは我が国の民の解放と、それに伴う貴国からの謝罪を要求する。
それに同意しない場合は1時間づつここに居るガキ共を10人づつ始末していく。
いいな?お前たちに選択の余地は無い。
それが判ったら今すぐお偉い様の所へ行きそれを報告しろ。
そして忘れるなよ?
お前たちの返答如何でここに居る生徒600人の命が失われるんだ」

何を言ってるんだろう、この人は。
それが気に入らないなら実力で軍を排除すればいいだけじゃない。
こんな下らないテロをすれば余計に自分の国の立場を危うくする事が判らないのかな?
大体要求を呑むよりも前に強行突破されるのが目に見えてるわ。
それにこんな穴だらけの配置じゃそこいらの警察連中だって突破出来そうじゃない。
そうぶつぶつと言いながら私は席に着く。
それを周囲の男が何か言ってきたが、無視した。
こんな馬鹿みたいな事に付き合う理由が知れない、だから付き合う必要はない。

「ねぇ、何でこんな可笑しな事やってんの?
まさか本気で日本がそんな要求を呑むなんて思っているの?
仮にあんた達にそう言ったとしても、逮捕した後撤回するに決まってるじゃない、馬鹿じゃない?」
私の発言に絶句したのだろう、彼等は口を開閉するだけで声を発する事が出来ない。
「これ以上こんな事に付き合わされるくらいなら、ここに居る連中皆殺そうと思うんだけど如何?」
「おいおいおい、君一体何言ってんの?
子供の君が俺達みたいなテロリストに勝てる訳無いじゃないか。
あまりに緊張しちゃってお頭が逝っちゃったかな?」
・・・・・・またこれだ。
如何して大人達は皆こうやって私を過小評価するのだろう?
自分たちがそんなに偉大な存在だとでも思っているのだろうか。
まぁいいや、どうせこいつ等は死ぬ運命なんだ。
だったら何時死んでもいいじゃないか、私が殺したとしても。
だから私はそうするし、今までだってそうしてきた。
私は可笑しくない、ただ先を読んでそれと同等の事をしているだけだよ。
だってそうでしょう?彼等には生きるに値する価値さえ無い。
「そう・・・・・・楽しみだわ」
二ヘラと笑って私はスカートの裾から出したナイフで隣に居た覆面の一人の首を裂く。
景気良く血が噴射して嬉しくなったので、すぐさまその後ろの男にもそうする。
何人かの人間を始末した後、やっと彼等が動き出した。
一人は銃を出し、一人は大きめのナイフを手にし向かってくる。
でも当たる気は無い、何故彼等はあんなに動きが遅いんだろう?
十数人かを切りつけた後、切れ味の堕ちたナイフを捨てて彼等の持っていた銃を引っ手繰る。
「銃はこうやって使うのよ、判る?」
引き金を一度引くごとに一人の人間が崩れ落ちる。
人の命なんて引き金を引く程度のエネルギーで消えてしまうのだ。
何てちっぽけな存在なんだろう。
そんな小さな存在なら誰が何時何処で殺したって罪は無い、そうでしょう、そのはずよ。
だから私は可笑しくないし、当然の事をしているまで。 ,br>気が付けば私の前に居るのはあの赤毛の男だけになっていた。
可哀想に彼は銃を取り落として尻餅を付き、涎を垂らしながら命乞いをしている。
でも何でだろう、彼の国民はもっと酷い目にあってるだろうに、この程度の事で弱音を吐くなんて。
・・・・・・結局は取るに足らない存在だったってことよね。
何となしに引き金を引こうとしたとき、涎が伝っていた彼の口が音を発する。
「な、何なんだ君は!
高校生なんじゃないのか、何でそんな簡単に人を殺せるんだ悪魔め!」
男は唾を飛ばしながら罵声を吐き捨てる。
「あらら・・・・・・なら貴方たちもその悪魔の同類ね。
何で貴方たちはこんな事をしていたの、必要だったからでしょう?
それと同じ、私にもコレが必要だったのよ、そうでしょう?
こんな馬鹿で存在する意味の無い連中に殺されるなんて考えられない。
私は当たり前の事をしていて、悪魔じゃないわ。
正しいのは私、悪いのは貴方。
だから私は人を殺せるし貴方たちは殺される、そうだよね?」

彼女のがそういい終えた時、彼は全てを理解した。
俺たち以上に彼女が異常だったというそれだけの話だ、と。

彼の眉間に穴を一つこさえた後、彼女は自分を凝視しているクラスメイト達を見て呟く。
「あぁ・・・・・・また別の戸籍と引越しの準備しなきゃ・・・・・・」

私は面倒臭そうに教室を後にする。
別段此処に未練はない。だってそうでしょう?
私は何時だって正しい事をして生きているんだから。
そのために私は人を殺せるし、他人は殺される。
そう、私は普通よ?
何処にも異常は無いし、私以上に正しい人間なんて居やしないんだから。

------今日この時を持って、彼女の存在はテロリスト達以上に日本を震撼させる事になる。

この世の中には、何事にも『解いてはならぬ物』が存在する。
そして『死』は、その中でも取り分け重要な物だと私は認識している。

人が有する権利の中で唯一平等な物、それが『死』。
人は皆『死』を恐れ、それに抗い生きようとする。
しかし如何強く生きようと、抗う事のできない物もまた『死』だ。
必然、人はそれを克服するために様々な手段を捜し求める様になる。
ある者は悪魔へ、ある者は科学へ、ある者は神へと救いの手を待ち望んだ。
------しかし、そのどれもが失敗に終わった。
中には、多少寿命を延長させた者もいるのかもしれない。
だが結局は迫り来るその権利から逃れられた物はいなかった、私を除いては誰一人------




幼い頃、私は裕福な家庭に飼われ衣食住を共にしていた事を覚えている。
家族は30代も半ばに指しかかろうかと言う夫婦と、少年が一人居た。
中でも私と最も親しかったのがその少年で、
小さい頃から共に遊び、共に食べ、共に眠り、まるで兄弟の様に私達は育った。
父親の稼ぎが良かったのか、家は常に清潔に保たれ、その敷地は広かった。
だから私は周囲の猫達よりも多くの縄張りを得ることが出来たし、
そのおかげか若くしてその界隈のボスとして君臨する事となった。
当時私の目には幸福しか映っておらず、死ぬまでこんな生活が出来ればなんと幸せだろうと考えていた。

しかし、その幸福は脆くも崩れる事となる。
私に理屈は判らないが、その家の金回りが極端に落ちたのは確かだ。
家に十名程居たお手伝いもその姿を消し、
どの季節も綺麗に手入れされた庭の木や花も日に日に荒んでいくのが判った。
当然家が荒めば人も荒むようになり、
何時も目に希望を宿していた私の兄弟分も痩せ細り、次第に目の光は失われた。

その傾向が始まって一月後、彼等は逃げるようにしてその家を去った。
------当たり前だが、私はそこへ取り残される事となる。

家族を失った私はどうして良いのかも判らず、只淡々と土地を渡り歩く。
稀に縄張りを侵されたと思った猫達に襲われる事もあったが、
住む場所も仲間も失った私には如何でも良い事の様に思えた。
そんな頃、私は一人の人間と出会う事と成る。
「やぁ、君は賢いね。
もし君さえよければ、私の家で一緒に住まないかい?」
街灯で照らされた彼の姿は、酷く私を不安にさせたのを覚えている。
全身を黒装束で包み、帽子とコートの間に見せる白い肌が酷く印象的だ。
声の質やその体躯からエルフかとも思ったが、顔を見ればどうやらヒューマンらしい。
立ち止まった私を躊躇無く抱き抱えると、彼は近くにあった真新しい建物へ足を運んだ。

僕は魔法の専門家なんだ、と彼は言った。
当然猫の私が返事を出来るはずも無いのだが、それでも彼は私に語りかけるのを止めようとはしない。
「僕はね、何時か魔法の力で不老不死を作り出してみたいんだよ。
神が課した人間への業、『死』という終着点を取り払って見たいんだ。
何故か、何故かって?
ふふふ、そうだよね、普通はそう考えるよね。
------僕は、見てみたいんだよ。
人間という生き物が一体どの程度まで歩んでいけるのかを。
私達はこの星で最も上に位置していると思っているけれど、本当にそうなのかな?
実は僕達は他の強者の手のひらで踊らされているんじゃないのかな?
うん、そうかもしれないし、そうでないかもしれないよね。
だから、僕はそれを確かめて見たい。
僕が使えるのは魔法だけだけれど、それでも行ってみたいんだ、そこにね」
彼はそんな事を説教しつつ、私への食料を運んでくる。
美味しそうなパンに厚めのベーコンが皿に盛ってあった。

そして彼は、自分の事をフェイトと名乗った。


それからどれ程の月日が流れたであろうか?
私の毛はその輝きを失い、あの雄雄しかった足腰は完全に老人のそれへと変貌していた。
その日、私が陽だまりの中で気持ちよく眠っていると、
ドタドタと五月蝿く音を立てて彼、フェイトが意気揚々と駆けてきた。
「ヴァリス、やったぞ、僕は終にやったんだ!
見ろ、今まで誰にも作り出すことは適わなかった不老不死の薬だ!」
そして彼はそれを私の皿へと注いだ。
私はやや躊躇したが、誰でもない彼の作った物なら安心だと口に含ぶ。
その瞬間、世界が一転した。
今まで聞こえても意味の判らなかった人間の言葉が一度に理解できるようになり、
老いてぼやけていた目も、勢いを失った体も全盛期のそれへと戻っていった。

その明らかな変化を見届けた彼は、鼻から蒸気を出すかと思うほど興奮し、
まだ朝だというのに長年寝かせていたワインを開け、私と共に祝った。

そしてその夜、彼は酔ったまま街へと繰り出し、翌日路地裏で凍死しているのを発見された。

私は、彼が死んだ事を理解するのに多大な時間を要した。
それ程に私は彼を慕い、彼は私の中で大きな存在へと育っていた。
それでも私には、彼が何時か帰ってくる様な気がしてならなかった。
毎日家のドアの前に座り、彼を待つ私を覚えている。
------数日だろうか、数週間だろうか?
私は、時が過ぎても空腹を感じていない自分に気が付いた。
そこでようやく、私は不老不死になったという事を実感する。



人はよく、『死』を取り除けば永遠に『生』を得られると勘違いする者がいる。
これ程の間違いは人類史上そうそうあるものでは無いと私は思う。
------何故か?
それには、生きる目標の存在の有無が挙げられる。
生きているものなら誰しもに当てはまるが、終着点があるからこそ目標を持つことが出来る。
「いつか出来なくなる日が来る」
この感情が何処かにあるからこそ、人はその行為に意味を見出す事が出来る。

しかし、不老不死を得た私に終着点などありはしなかった。
何をどれ程やろうと、その終わりが見えることは無い。
私は、終わる事のないそれに意味を見出すことが出来なかった。
永遠と続く私の道は、初めから存在していない物と等しかったのだ。

笑えるだろう?
人が『生』のために克服した『死』が実は、『生』を支える最も重要な要素だったとは。
結局、『生』と『死』という物は一見対立しているようで、その実全く同じ意味を持っていたのだ。

己の一生の意味を破棄した私は、二人目の主人フェイトの意志を受け継ぐ事を決めた。
人間はその足で何処まで進む事が出来るのか。
人間は結局、この星でどの様な意味を持って生まれてきたのか。
恐らくこの星に最期まで残るであろう私には、それが最も適した役割だと思えた。

------そして今日もまた、私は『生』を渇望する人間たちを眺め生きていく。

時々、物凄く寂しい気分になる時がある。
 亜矢さんやお父さんは物凄く僕に甘えさせてくれるけど、
皆がいなくて独りの時は、寂しくてしょうがないんだ。
 別段嫌ではないけれど、この首から吊るされた紐も取ってもらいたい。
 どうして僕は皆と同じように生きていけないのだろう?
 僕も皆と一緒に寝て、ご飯を食べて、外へ出かけたりしたいんだよ?
 いつも僕は皆が来るまで待っているし、夜や留守の時は家の番もしてるよ。
 なのに、何で僕は皆と違うんだろう?
 それにどうして、僕の言葉は皆には聞こえないの?
 外へ出たいってお願いしても皆笑いながら顔をなでる事しかしないんだよ。
 撫でられる事は大好きだけど、僕も皆とお話がしたい。
 散歩の時に会う友達から、僕は犬と言う種族なんだと聞いた。
 家族の皆は僕とは違って人間と言う生き物なんだそうだ。
 犬と人間、一体どんな違いがあると言うんだろう?
 彼は犬は人間の忠実な僕だって言ってたけど、本当なのかな?
 僕は皆を家族だと思っているし大好きだ。
 けど、本当に皆は僕の事をそう思っているのかな?
 家の番をさせるために庭に置いて、都合のいいときだけストレスの捌け口にしてるんじゃないの?
 僕は不安なんだよ、物凄く。
 毎朝それを亜矢ちゃんに聞こうとせっついてるけど、何時もと変わらず笑ってあしらわれちゃうんだ。
 そんな時、日に日に僕の中の不安が広がっていくのを感じる。
 嗚呼、皆。僕はこんなに皆を好いてるのに、どうして皆はその証を示してくれないの?
 僕は毎晩その事で魘されるんだ。
 生まれてこのかたずっと皆を好いて生きてきたのに、もしそれが過ちだとしたら恐ろしくてたまらないんだよ。
 誰でもいいんだ、それを僕に教えてくれる人はどこかにいないの?




 世の中は物凄く詰まらない物だと思う。
 社会人になるまで小学校、中学校、高校と勉強企画が目白押しだ。
 それに高校を出たとしても大抵の人間は恐らく人生の分岐点となるであろう大学受験が控えている。
 浅峰亜矢もその例に漏れず来年の冬には大学受験が控えていた。
 しかし中学からのエスカレータ制や小学生の頃の海外生活が彼女の持つ概念を常識から多少遠ざけていた節がある。
 彼女が幼い頃住んでいたオーストラリアでは大学とは即ち技術を求める場だったのだ。
 既に将来を見通し、その道で必要となるはずの知識やその方法等を学ぶために行くのが大学なのである。
 所変わって日本ではそれとは逆で、その将来を見つける場として大学は設けられている。
 一見この差は些細なものの様に見えるが、亜矢にはそれこそが大問題なのであった。
 つまり、オーストラリアでは目指す職業にさしたる技術が要らなければそのまま就職と言う道もあったのだ。
 しかし事日本では「とりあえず大学には行くべきだ」という風潮が大きくていけない。
 当時は私の考えに賛同してくれていたはずの父も、その風を受けてか何時の間にやら私と意見を違える位置に行ってしまった。
 それが必要になったら大学に行く、だけどそれまでは自由にやらせてよ。
 という意見を一度は父や教師にぶつけて見た物の、皆一様に「それでは浪人と同じだ」と一蹴されてしまった。
 一体何故日本人は浪人という言葉に過剰反応するのだろう?
 重要なのは結果や自分自身で下す評価のはずなのに、
表面的な事実や無意味な情報の蓄積に何の意味があるのだろうか。
「やってられないわね・・・・・・・」
 頭の中で煮詰まった討論を脇に追いやり、体を起こしながら愚痴を零す。
 今日は日曜日なので学校に行く必要は無いが、あと3時間程すれば塾の講義が始まるはずだ。
 それにそろそろ起きないと残業で目に隈の出来た父が色々と煩いだろう。
 別段父に従順になろうとは思わないが、朝からそんな事で気分を濁すのも憚られた。
「おぅ、おはよう。今日はやけに早いな。デートでもあるのか?」
 眠気眼で階段を下りると、何時もと変わらず無精髭のある人当たりのよさそうな父が顔を出した。
 残業で昨日は2時に帰ってきたはずなのに、もう食事まで用意しているとは恐れ入る。
 その体力があるならヴィリーの散歩もやって貰いたい物だ。
「おはよう。今日は塾よ、父さん。
それより昨日は遅かったのに、もう起きて大丈夫なの?」
 思考とは裏腹に当たり障りの無い返事をしておく。
 亜矢は今までの経験でそれが最良だと学んでいたし、事そこに至っては誰にもまける気はしなかった。
「あぁ、もう栄養ドリンクも飲んで回復したよ。
それよりもどうなんだ、あの彼とは。上手く行っているのか?」
 隈の浮かぶ顔で言っても説得力があるはずも無く、私は苦笑の顔を作る。
「そう、父さんも物好きね。たまの休日くらい気兼ねなく寝てればいいのに。
それと雄二君は只の友人よ。そういう関係じゃないし、そういう人なら他にいるのよ。」
 父はそれを聞き、にまぁと口を歪ませ笑う。
「一度日常を崩すと建て直しが大変だからな。こういう事は気をつけなくちゃいかん。
・・・・・・あの子がそうじゃなかったのか?仲良くしてたからてっきり・・・・・・。じゃあ、一体誰なんだ?」
 父のこういう面は素直に尊敬している。
 子供の事情に関しては兎も角も、人生の歩み方という面では非常に堅実で信用の置ける人だと思う。
 しかし、そう思う反面、何故そんな人が私を理解してくれないのかと言う一抹の悲しみもある。
 私が間違っているとは思わないし、父が馬鹿だとも思えない。
 とどのつまり、この手の問題は時間を置いて考えた方がいいという事なのだと私は結論づたけた。
「機会があったら教えてあげるわ。
それじゃ、そろそろ支度するから行くわね。」
 亜矢は早々に朝食を終えると、足早に階段を上って言った。
「・・・・・・若いというのはいい事だなぁ」
 意味ありげな事を龍司が言ったのにも気づかずに、亜矢は部屋の戸を閉める。
 ・・・・・・相変わらず、世の中はつまらなかった。




 僕は毎朝、亜矢ちゃんに連れられて散歩するのが日課になっている。
 亜矢ちゃんは早起きで、僕が起きる随分前から起きているみたいだ。
 時々僕が散歩の時間を早めようと囃し立てるけど、彼女は全く意に介さない様に無視を決め込む。
 当然少ししたら僕は黙るのだけれど、そういう強かな彼女が僕は溜まらなく好きなんだ。
 彼女がトレーニングウェアを着て外に出てくると、僕は尻尾を限界まで振って彼女に喜びを伝える。
 それが伝わると僕を抱きしめて撫で回してくれるし、散歩も少し長めにして貰えるからね。
 僕の散歩には一定の道筋がいくらかあって、周期的に彼女が変えているみたいだった。
 今日のコースは僕が一番好きな道で、少し遠めの公園まで足を伸ばす物だ。
 そこにはいつも男の人と、その人に連れられた一匹の犬がいた。
 彼はどういうわけか僕達が来る日には必ず居て、亜矢ちゃんと話し込むんだ。
 その間僕は繋がれていて、すぐ隣に居るメス犬と会話を楽しむんだよ。
 彼女は自分のことをハスキーだと言って、レイクと名乗った。
 彼女の体はしなやかで洗練されていて、顔もその毛の色からどことなく高貴な雰囲気を醸し出していた。
 少々太り気味で、そうでなくとも線の太い僕とは大違いだ。
 彼女は僕の知らない事を数多く知っていたし、その話方も実に詩人めいていて僕はすぐ好きになった。
 何時もの様に他愛も無い世間話をした後、亜矢ちゃんの方をちらりと見てまだ時間我在ることを確かめると、
僕は早速あの事を彼女に聞くべく切り出す事にした。
「折り入って聞きたい事があるんだ、レイク。
少しややこしい話かもしれないんだけれど、いいかな?」
 彼女は指して考えずに、了承の意を伝えた。
「あら、私はどんな事でも聞きたいわ。
遠慮しずに話してごらんなさい、きっと解決出来ると思うわ。」
 僕はほっと胸を撫で下ろし、素直に思っていることを彼女に告げた。
 すると在ろうことか彼女は笑い出し、僕は急に恥ずかしくなって寝そべって顔を埋めた。
「ごめんなさい、別におかしいわけじゃないのよ。
・・・・・・うふふ・・・・・・あはははは・・・・・・ひーひー。」
 これには僕も流石に腹が立ってきた。
「そんな言い方しないでおくれよ、僕だって真剣なんだ。
この所その事ばかりが頭に浮かんで眠れないんだよ。
頼むよレイク、お願いだから僕のこの悩みを取り払ってくれないか?」
 笑いを必死に抑えるため寝そべって鼻を土にこすりつけた後、彼女は向き直り真剣な面持ちで口を開いた。
「いい、ヴィリー?あなたの考えている事は非常に馬鹿げた事なんですよ。
考えても御覧なさい、あなたは行動を起こす時には一体どんな風に動いているの?
少なくとも私は自分で「考え」そして「行動」に移しているわね。
つまり、「行動」というのは「考え」の表れなのよ。
だから他人が何を考えているかは行動を見れば大体は察しが付くわ。
私の見る限り、貴方の飼い主のあのお嬢さんはあなたを可愛がっている様ね。
ということはそれが彼女の「考え」であり、私たちにはそれが全てなの。
もしかしたら裏に何かあるのかもしれないけれど、私たちに向けられている善意を無碍にする物じゃないわ。
今あなたのするべき事は彼女達から与えられる愛情を素直に受け入れる事。
そうすれば自然と幸せになれるし、今の様な悩みもどこかへ飛んで行ってしまうわ。そうでしょう?」
 彼女の指摘は適切でそして明確だった。
 僕は稲妻に打たれたかのように彼女を呆然と見詰め、
気が付くとあらん限りの伝え方でその喜びを表現した。
「そうだ、そうだったんだ!
僕はなんて馬鹿らしいことで悩んでいたんだろう。
亜矢ちゃんは今僕を凄く可愛がってくれているし、父さんも然りだ。
こんなに僕は幸せなのにどうして悩む必要があるんだろう!」
 ヴィリーが飛び跳ね喜ぶ姿を見て、彼女も満足し笑みを作った。
 その日僕は彼女と別れてもその幸せな気分は抜けなかったし、
亜矢ちゃんが体を撫でてくれたら精一杯の愛情を込めて顔を舐めた。
結局のところ僕は幸せで、僕は皆を好きで生きていけるんだ。
世の中はなんて幸せで、そして明るい物なんだろう!


 カチ、カチ、カチ。
 誰も居ない部屋で只一人休みもせずに針を回している者がいる。
 彼は誰に頼まれたわけでもなく、大した感謝をされるでもなくそれを続けている。
 デジタルで針の無い者も出てきた近年、彼等の人口は日増しに少なくなっていった。
 大きい物はデジタルな置時計に取って代わり、、小さい物はデジタルな腕時計に取って代えられた。
 それでも彼らは抗うことなく、その使命を黙々と行っている。

 ------果たして、彼らは不満では無いのだろうか?
 時計と言う物が発明されて以来今日まで至る所で使用されるアナログ時計。
 彼らはその針を常に動かし人間に現在時刻を告げる。
 命令されるでもなく、人間がいつ自分を見てもいいように休みなしに針を動かして。
 私は思う、いつか彼らは人間にその時を伝える事を止め、
その逆に人間に誤った時を教え彼らに混乱を齎すのではないかと。
 その逆襲は一見些細な物に思える。
 しかしその実、一国をも動かし得る混乱を起こす事も可能なのだ。
 私は恐ろしくてたまらないのだよ、
 今私の後ろで刻々と針を動かす彼にもし悪意が芽生えているかもしれないと思うと。
 古い御伽噺かもしれないが、私は物には魂が宿っていると考えている。
 私が座る椅子にも、使う机にも、そして勿論身近に在る時計にも。
 それの何がおかしいと言うのだろうか?
 人間とてただの電子信号を魂と言い表し、
それだけの理由で持って他の動物や物よりも高みに置こうと必死になっているではないか。

                               Arnold Leaman 「時計の謎」より抜粋


みなが寝静まる頃の深夜零時。
鬼無という高台の一角に常刻という時計屋が闇夜の中に佇んでいる。
店の造りは質素そのもので、どことなく風格が滲み出ている普通の時計屋の様に見える。
店の中もこれといった特異点は無いが、
強いて言えばたった一つの時計の音だけが妙に響いているという事だろうか・・・・・・。
それは一般に言うアナログの掛け時計で、秒針・分針・時針の三つからなる物だ。
形は木で出来た家のような物で、三角の屋根の真ん中からは模型の鳩が飛び出す仕組みになっている。
そんな時計が、他の時計より抜きん出て大きな音を出している。
しかし物知りな人ならそれがただの音では無い事を知っているだろう。
そう、彼らは滅多に口を開く事は無いが、一旦話し出すとその"声"は非常に煩いのだ。
そしてここにいる彼も、興奮気味にその熱弁を振るっていた。

「諸君、起きているか。
私は今し方、大変重要な事柄について思い至ったのだよ。」
シン・・・・・・と静まる店内にその声は異様なほど響き、恐らくそれに気づかなかった物はいなかっただろう。
「夜分遅くにすまない。
しかしこれは我々アナログ時計にとっては非常に深刻な問題なんだ、判っておくれ。」
深夜に起こされた他の時計の機嫌を取りつつ、彼はその目的となる事柄を伝えるべく口を開いた。
「我々が長きに渡り人間達に時を伝えている事は疑いようの無い事実だろう。
ここにいる殆どの時計もいつかは各々の主人に引き取れられ、その家でそれを遂行する事かと思う。」
彼はゆっくりと、それでいて非常に力強い声で彼等にそれを伝える。
「しかし気づいているだろうか?
近年になって我々アナログ時計の存在が非常に減っている事に。
そう、我々よりも遥かに性能の良いらしいデジタル時計が我々の居場所を奪っているのだ。」
周囲にどよめきが広がる。
どの時計達もその事実については今知った事だろう。
辺りが落ち着いてから、彼はまたその話を続ける。
「しかしデジタル時計達には罪は無いと私は思う。
彼らもまた、その使命を果たすべく働いているに過ぎないのだから。」
「では、一体誰にその罪があるというのかね?」
彼の発言に店で最長老となる時計が疑問を投げつける。
「それは人間ですよ。
時を知るなら我々だけで事足りるにも関わらず彼らはデジタル時計を生み出した。
そして今まで精力尽くして働いてきた我々を追いやろうとしている。
彼等のその努力には恐れ入るが、その愚行こそが人間の象徴なのだろう。」
周囲のざわめきは一層大きくなり、中には罵声を吐くものも居た。
そしてその自体を治めるべく、先程の長老が口を開く。
「その罪が人にあると言うのなら、君はそれをどうしたいのだね?
それに我々は今までその人間に時を告げるためだけに生きていたのだよ。
そこを今更止めろと言う訳には流石に問屋が卸さないのではないのかね?」
彼は少々困った様子で、長老に答える。
「そうは言っても長老、彼らは私達を見放したのですよ?
そんな者達にこれ以上仕える必要が一体どこに在ると言うんですか。」
長老は少し考えたあと、力強い口調で述べた。
「いいか、我々は人に時を告げるためだけに存在している。
そして我々からそれを取り払ってしまっては、残る道は死のみだ。
我々を作ったのは人間で、それを使うのも人間だ。
いくらその事に不平不満を漏らした所でそれは変わらないし、これからもそうだろう。
じゃが逆に、私達は今まで必要最低限のことしか彼等にしてこなかった節がある。そうだろう?
ただただ針を回すだけで、それ以外は出来るのにも関わらず実行しようとはしなかった。
その結果がデジタル時計であり、それを招いた一端は我々にもあるのじゃよ。
そこで提案なんだが、ここらで一つ本腰を入れて頑張ってはみないかね。
そうすれば人間たちも我々の重要性に気づくだろうし、我々もこの先死なずにすみそうだ。」
周囲の時計達は口々に賛成の意を唱え、これから如何するべきか煩いほどに囃し立てた。
そしてその夜に練られた計画は瞬く間に世界中へ広まり、実に多くのアナログ時計達の賛同を煽った。

------2006年10月21日、それは起こった。
世界中のアナログ時計が今までに見せなかった機能を発揮し出し、
1日と発たない内に世界中で特大スクープとして報道された。
機械工学の教授達は口々に「有り得ない」を連発し、
一般の市民たちもその事実には口を開けて見つめるしかなかった。
当然だが、この事実が時計達の意思により引き起こされたと考えるものは居ない。
しかし理屈などどうでもよく、人間である彼等は時計達の行為を素直に受け入れたし、
例え悪魔の所業でもその原理となる物を不信がった物は恐らく一人もいなかっただろう。
そして時がたつにつれ世界を熱狂させたそのニュースは日常へ溶け出し、
奇異な時計達の働き振りもまた人間の中の時計の概念の一般型へと変貌していった。

しかし彼等が行った一つの奇跡は未来永劫変わる事は無く、
人間たちもまたアナログ時計達の頑張る姿を忘れることは無いだろう。

「ねぇ、そんな事をしていて楽しいの?」

俺の前に突然現れた犬はそんな事を言う。
とりあえず相手をすると俺が発狂しそうだから無視するとしようか?

「ねぇって、如何してあんな事をしていたの?
あの画面に一体何が映っていたの?
あの画面を見ていれば、何か楽しい事が起こるの?
ねえねえねえ、少しは反応しなさいよ?」

多分シベリアン・ハスキーとかいう犬だったかな・・・・・・?
毛は白と黒が入り混じり、体躯と顔つきは明らかに狼のそれだ。
しかも悪い事に、一般的な犬よりもかなり大きい。
ハスキーは中型犬だと聞いたんだけど、あれは超大型犬の部類だよなぁ。
そんな事を頭で思い浮かべつつ、俺は歩を進める。
このハスキーは途中幾度と無く話しかけてきたが、
俺が完全に無視を決め込んでいると悟ると口数も自然に減っていった。
勿論通行人とすれ違う事もあったが、
如何いう訳かこの犬の姿や声に反応する物は居ない・・・・・・。

もしや、俺は狸や狐にばかされているのではなかろうか?
そんな疑念を抱いた丁度その時、その犬が俺の前へ躍り出る。
「ちょっと、人がこんなに言ってるんだから少しは返事しなさいよ?」
「それ以前にお前、人じゃないだろよ・・・・・・」
余りに突っ込みどころ満載だったために、ついつい何時もの調子で返事を返してしまう。
「なによ、ちゃんと話せるんじゃない。
幸太さんが口が聞けないような病気なのかと思って心配し出した所だったのよ?」
何なんだコイツは、今日の俺は何か狂っているのか?
それとも宝籤を当てる位のランクで運が悪いのか?
んな事言ったって普通に朝起きれたし、朝食も食べたし、快弁だったし・・・・・・。
ブツブツ言う俺を尻目に、ハスキーは一歩前へ出て俺を促す。

「まぁ、何にしても会えて良かったわ。
私も今回が初めてだったから、少し不安だったのよ。
誰だって、初めて何かをする時にはこの上も無く緊張する物だわ、そうでしょう?」
「あ、あぁ・・・・・・」
心此処に有らず、という言葉を体現している俺はそんな声を返す。
「ちょっと、大丈夫?
目の焦点が微妙にズレてる気がするんだけれど・・・・・・。
あぁ、あれなの?もしかしてあれなの?本当に?やだどーしよー」
俺の横でハスキーはいかにも恥ずかしそうに顔と足を絡ませている。
・・・・・・こういう場合、俺はどういった反応でもって返せばいいのだろうか?
これだけははっきり言えるが、こんな体験は初めてだ。
もしや、これはギネスに載るほどの大事なのではないか?
そうだとすれば俺は・・・・・・有名人?
俺はある意味図太い思考を携え、心拍数を上げる。
「なぁ、あれって何なんだ?」
ピタと動きを止めたハスキーは、ゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げる。
そしてその顔には、正にニヒヒという言葉がぴったりな表情が浮かんでいる。
「男に対してあれっていったら、発情しかないでしょ?
しょうがないわよねぇ、貴方もそういう年頃だもんねぇ。
おまけに私のこの美貌、全然恥ずかしがる事は無いわよ?
むしろ私に発情できるって事は凄い幸せ物なのよ?
勿論、相手を選ぶ権利は貴方じゃなく私にあるけどね」
「・・・・・・」
悶絶、というのは正しくこの事だろうと俺は思う。
発情という二文字を出された時は、余りのブローの強さに肋骨が逝くかと思った程だ。
「待て待て待て待て、ちょっと待て。
如何して人間の俺が、犬のお前に発情しなくちゃいけないんだ?
可笑しいだろだって、種自体が違うんだぞ・・・・・・?」
「・・・・・・」
今度はハスキーの方がきょとんとしてしまった。
何か予想外の事態が起きたかの様に、お座りの体制で固まっている。
そんな状況に飲まれたのか、俺もまた、その場から動く事が出来ない。

------まぁ、すぐにこの時逃げていればと後悔する事になるのだが。

「あぁ・・・・・・うん、忘れてた。
貴方の場合はそこから始めなきゃいけなかったのね。
ごめんなさいね?今まで何が何だか判らなかったでしょう?
この程度のことは承知しているんだとばかり思っていたから・・・・・・」
ひとしきり何かを考え抜いたハスキーは、申し訳なさそうに頭を垂れる。
それからは何故か無言で歩き続け、気が付けば俺の家の前に来ていた。
「お前も入るのか・・・・・・?」
「ええ、勿論。
大丈夫よ、誰も不審がったりしないし汚しもしないから」
俺が一番不審がるんだよ、と言う本音は飲み込んでおく事にする。
玄関から入った俺はそそくさと居間へハスキーを案内した。
すると奴は偉そうに座布団の上へ腰を下ろして、俺に座るよう促した。

「さて、やっと落ち着いたわね。
今から説明するけど、心の準備はいいかしら?」
体のそこ此処から汗が噴出すのが判る。
相手は犬なのに、こんなに真剣になってしまうのは何故だろう?
・・・・・・まぁ、犬と言ってもこうして喋るのだから普通ではないんだけれど。
「・・・・・・あぁ」
俺が了承したのを見届けると、ハスキーは重たげに口を開く。
「じゃあ、この先も一度きりしか言わないからよく聞いてね?
多分今日この時貴方は物凄い衝撃を受けるだろうけど、それを受け流す術を見つける事。
何時までも開かない扉にしがみ付いたり、虚無の現実へ逃げ込んだりしない事。
そして間違っても、貴方自身を恨まない事。
貴方はこの先も何も変わらないし、例え死ぬその時でも貴方は貴方よ。
だから、今から告げる事実を絶対に貴方から切り離さない事、いいわね?」

彼女は瞳を閉じ、大きく息を吸う。
そして瞳を開くと、俺と視線を交わらせ、『それ』を告げる。

「貴方は、私と同じ狼なの」

俺が、俺を取り巻く全ての現実が、徐々に徐々に崩れていくのを感じた。

 事故に遭う瞬間は時間がゆっくり流れると言うが、どうやら本当のようだ。
 森中は逆さまに落下しながら思った。

 七階の窓から漏れる光が徐々に近づいてきた。

 七階のオフィスには、まだ半分ぐらい人が残っていた。
 夜の十時だというのにご苦労なことだ。思えば私が飛び降りる羽目になったのはこいつらのせいだ。
 ちょうど一年前、こいつらがうちの商品をまねした時から歯車は狂いだした。
 くそっ、全部お前らが悪いんだ。
 電話を肩で挟みながらキーボードを叩いているやつ、
コピーをとっているOL、のびをしているやつ、すべてが憎かった。

 七階はやがて遠ざかり、同時に六階の灯りが近づいてきた。

 まだ残っている人間が居るのか。
 フロアを見渡すと分厚いファイルと電卓を交互に睨んでいる人物が居た。
 松岡じゃないか。
 会社がこんなことになったのは私のせいだというのに、こんな時間まで残っていたのか。
 当の本人は責任を逃れて自殺しているというのに。
 以前の私なら松岡のようにあきらめずに、がむしゃらに働いていたかも知れない。
 だが、以前の私と違い今の私にはこの困難に立ち向かうだけの勇気を与えてくれる者はいない。
 すまない、松岡。あのときお前の話を聞いていれば・・・。

 遠ざかっていく六階を見ていると、涙があふれてきた。

 気が付くと五階は目の前にあった。フロアの片隅にライトが一つだけ灯され、
その下にいる人物を照らしていた。その人は背筋をピンと伸ばし、リズムよくキーボードを叩いていた。
 スポットライトのように照らされたその人は、まるで天使のように見えた。
 その天使はわずかにこちらに顔を向けた。
 それは妻だった。最近帰りが遅いのはここで働いていたためだったのか。
 さやかは家に納めるお金はこんなにいらないと言った。
 子供が二人もいるのに足りるはずがないのはわかっていたが、私はOKした。
 どうせ、どこかの馬鹿な男が貢いでいるのだろうと思ったからだ。  ・・・馬鹿は私だ。

 一人で勝手に勘違いして、会社を捨てて自殺するなんて・・・。
 でも、だめなんだ。もう手遅れだ・・・。

 天使の姿は見えなくなった。

 目を閉じると、松岡とさやかの一生懸命働いている姿が浮かんだ。


 泣き言を言って、あきらめているのは私だけじゃないか。

 森中は目を開けた。真下には街灯に照らされた真っ白なコンクリートの地面が見えた。
 そして、その先には薄汚い川が流れているはずだ。
 飛び降りる前は川に落ちることを恐れて壁すれすれに飛び降りたが、
今ではその川がどうしようもなく遠く、愛おしく思えた。
 あそこまで行ければ助かるかも知れない。
 手足をばたつかせが、少しも進まなかった。だが、真下を向いていた体が少し傾いてくれた。
 森中はひざを曲げると、思いっきり四階のガラス窓を蹴った。
 ひびがはいったかも知れないが、かまうものか。
 どうせここは、私の会社への融資を断った金融会社だ。
 体は川に近づいたが、まだ足りなかった。
 両手両足を広げ、風を受け止めた。体は少しずつ川へ寄っていったが、
地面はそれ以上のスピードで近づいてきた。

 あきらめるものか。

 体にすごい衝撃が走った。
 とどかなかった。そう思ったとき、笑いがこみ上げてきた。
 ははは、地面に激突していたら、こんなこと考えられないか。
 目を開けると、数えきれないほどの大小の泡が、
 空へ向かってゆらゆらと昇っていく幻想的な光景を見ることができた。

 なんだ、やれば出来るじゃないか。