3月11日の夜

職場の仲間と4人
小さなタオルケットや
毛布で体を包み
震えるように朝を迎えた


幸い
わたしの職場のあるSCからパンや水をいただいた為、
食べる物には困らなかった




ここからの記憶が、
あいまいで
覚えてない


ただ、
忙しくて忙しくて
夜も眠れなかった


避難者の方々の誘導や
食品配布や見回り
水のないトイレで、
トイレのお世話もした


何日目かの
夜中のローテーションが
1番辛かった


胃腸炎、ノロウイルス、
インフルエンザが蔓延してる中、

夜中に嘔吐する子供達の世話もした


医療に携わる人間でもない
ど素人のわたし達にできることは、
汚れた衣類を着替えさせ

寒くないように
毛布でくるんで、
抱きしめてあげること

ホッカイロで温めて
あげること


誰かの為にとか、
そんなんじゃなく、
誰かが手を挙げないと

全てが回らない気がした

ひとつ躓くと
ドミノのように倒れていく


吐いては泣く子供の背中をさすりながら、


父も気仙沼の病院で、
同じことをしているのかな...と思ったら
涙が止まらなかった


幸いわたしには
同じ価値観を共有できる仲間がいたため
毎日のように
確認し合い
励まし合い
揺れる心を支えてきた


仲間の車にあった充電器で、
携帯の充電もできた


ツイッターにツイートもした

生きてる自分を
知ってほしかった


周りの
みなさんもご無事ですと


3月11日


わたし達の国には
不幸な出来事がありました


日本国民が、
決して忘れる事の出来ないほどの
哀しみに襲われました


わたしは、
被災地におります

震災当日も、
宮城県石巻市にいました


激しい揺れと悲鳴の中、
這うように身を守り
ただ、ただ、揺れがおさまるのを祈りました

近場の中学校へ避難をした直後

大きな津波がくるという報告を受け、
小雪がちらつく中、
SCの屋上へ避難をしました


遠く離れた恋人の安否確認ができた為、
実家がある
南三陸町へかけるが、
回線はすでにパンク状態



祈るしかなかった
生きていてくださいと
祈ることしかできなかった


涙も出ない


わたしの生まれ育った町は、
海が近く
美味しいお魚が年中食べられる誇り深い町です


おばあちゃんのおうちは
海まで歩いて5分


おばあちゃんちのベランダから見える海は
とてもキレイでした


でもきっと、ない
もう全部ない
絶対ないと思った


命だけでも
助けてあげてくださいと


父も母も
おばちゃんも、
どうか無事でいてくださいと


強く強く
祈ることしかできなかった