鉛筆を削っていたときにふと思ったことです。僕は、鉛筆は極力全部使い切りたい主義なので、本当に人差し指1関節分ぐらいまで使います。ただ、その鉛筆の寿命が短くなれば短くなるほど削りづらくなり、書きにくくもあります。

そこから推論というか連想させると人生のことにも当てはまるのではないかと思いました。

僕は、生命の本質は燃焼することにあり、そうでなければ中途半端な人生しか送れないと考えていますが、残りの人生をどう生きるかがある意味で一番難しい。それでも結局、最後の最後まで最善を尽くすことに原点回帰するのだとは思いますが、若い頃とは違って自分自身の力だけでは生命力を燃焼し尽くすことができなくなってくる。だから、他人の協力・補助が必要になってくる、というふうに考えました。

宮崎駿が2013年の引退会見の後に撮られたドキュメンタリー番組の中で「どういうふうに終わっていくかですから、終わり方難しいんですよ」っておっしゃっていましたが、その後紆余曲折して再び長編映画の制作を決意したあとには「女房にもまだ言ってないですよ。言うときは"途中で死んでも"って覚悟でやるから、認めてくれって言うしかないですね。でも、何もやらないで死ぬよりやってる最中に死ぬほうがまだマシだね。死んではならないと思いながら死ぬほうが。」ってことを言っていました。覚悟の様子が読み取れますね。

ちょっと話がずれましたが、こういう連想は鉛筆だからできたことでシャープペンシルやボールペンではそこまでの発想に至らなかったでしょう。木材のように生命の無常さを実感するものを使うからこそ謙虚になり、今を大切にして生きていこうと思えるのだと思います。デジタルに囲まれると便利にはなるかもしれませんが、やはりアナログにしかない大切なものを見失いやすくなっていると思います。便利になるとその分昔にはあった自分自身の力量で責任をもって他人・地域社会と有意義につながる積極性が養えなくなってきてるのではないでしょう。そして、日本の雇われの環境に慣れすぎていると尚更現状に縛られやすくなっていると思います。アメリカのような起業家精神を21世紀に生きている以上は養わなければ日本の未来は明るくなりません。慈悲バカが必要なのです。その例として、今YouTubeで大学受験に必要な科目のコンテンツを無料公開している「ただよび」もありますね。彼らの収入はYouTubeからの収入が主ではないでしょうか。彼らはそこまでして、教育格差を無くすために我が身を削って現状の外に飛び出したのです。おそらく彼ら塾講師たちが一番現状の残酷さを身を持って体感していたのでしょう。そうやって、本気で世のため人のために行動すれば最後には自分たちに返ってくると思います。

主体性を取り戻すためには、今の資本主義の論理から一度距離を取ってみても良いかもしれません。今の企業サービスに依存する社会は本当に正しいのだろうか?色々なことを知識をつけながら疑問に思っていくのです。原則として、「本当に生きていく上で必要なものはそんなに多くない」ことをわきまえているといいかもしれません。まずは自分でできることを増やす。それを限界までやってみる。そして、本気で限界までやってきたからこそ外注も可能になるのではないでしょうか。安易に頼って良いものではないと考えています。便利は進化を止めかねないのです。