「数学ってなんの役に立つの?」これまで、よくこんな言葉を浴びせられてきました。

そもそも「社会の役に立つなんて言われているものは大抵いかがわしいと思った方が良い」というのが僕の考えです。

理由を並べ立てても、結局自分自身がそれをやりたいからでしかないんですよね。理由付は後付けです。

何でこんなことを考え始めたのかというと、苫米地先生のよく言う「社会のために役に立つことをする」っていうのに何か物凄い違和感を感じていたためです。アドバイスですが、ドクターの本を読む際はあまり言葉のまま受け取らないようにすることです。実は、反対の意味が著者の言いたいことだったりすることがあると思います。『100年後の日本人』を読んだ際は実は、ドクターもこんな世界になるのが嫌で、このままの現状の延長線上に行ってしまえばこんなディストピアが待っていますよ、それでいいんですか?と我々に問いかけている気がしてならないのです。そこまで読み取れているのが肝要であり、そういった見識に至るまでには、やはり色々な人・多分野の本を読み、実践してfbを取ったりしながら、ゲシュタルト統合した上でもう一回読んでみると全くもって新しい内容として目に飛び込んでくるかもしれません。

本来、日本で商人は一番低い身分だったと確か小学生か中学生で習った気がします。結局、ものを売る・商売をするってことの本質は狡い事でしかないのです。そのままの商品の価値を宣伝しているわけではないのです。何かしら加工をして消費者側の興味を惹き付けなければものは売れませんからね。

昔は、学者や聖人などの身分が高くてそれが正解であり本来の位置関係だと思っています。学問をやっていると工業的なものには全くもって美しさを感じないのです。本来の学問の素晴らしさは工業的なものの中にはないと勝手に僕は思っています。だって、数学の美しさってありますが、それを実物に置き変えろと言われると途端に難しい話になります。数学はある程度形而上学的な世界観であり、実際に世界の真理として"本当に大切なものは目に見えない"のです。そして、密度が荒くなるにつれて我々に見えるものとして写像化されるのです。だから、現代のビジネスにおける物質的な豊かさの喧伝は最悪ですね。物質的な豊かさは精神的な豊かさとは全くもって切り離すべきものなのです。だって、明らかに物質的な不足は解消されつつありますが、昔の人の方が生き生きしているように思われます。昔の人たちのほうがもっと人間関係が豊かでコミュニケーションも盛んに行われていましたし、他者と協力して何かを成し遂げることに価値を見出していたように思いますし、生命力が溢れていたように思います。それに対して、現代は自分たちのエゴばかりが肥大化して自分たちの利益・利便性ばかりを追求して、人間関係を疎遠にし、かえって我々を苦しめているのではないでしょうか。特に、東京の人たちは顔が死んでいるように見えます。僕は何回か韓国を行き来したりしましたし、アメリカにも行ったことがありますし、地方にも修学旅行などで行ったことがありますが、東京に帰ってくると物凄く淀んだ空気というかゾンビみたいな顔をしています。この人たちは本当に幸せなのか?と心配してしまいます。そんなに死んだ顔になるぐらいなら無職のほうが良いと思います。世間体なんてクソ喰らえです。実際は、人間というのは孤独な存在ですし、そこから逃げることはできません。誰もあなたのことを見ていません。この世界は恐ろしくも美しい世界なのです。そして、孤独だからこそ物理空間という共有場を大事にしましょうということですね。何らかの存在意義を見出すべきでしょう。まあ、もちろんそれは仮観なんですがね、、

もし、西洋文化がもっと下火だったらこの世界は東洋文化が花咲いて、草原などで瞑想ばかりをする世界になっていたのかもしれません。

まあ、今はもうそんな次元ではなく東西を超越した宗教文化を創出すべきだと思います。言葉でいうほど、簡単ではありません。それを実現するためにはリベラルアーツ(神学、哲学、文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、天文、音楽)を最低教養レベルまで学び尽くして、ヨーガや気功や武術といった東洋由来の文化と融合して、融合を超越して新たなサードカルチャーを創出するということです。これを本気でやるなら正直結婚してる暇無い気がします(笑)この世はなんと豊かなんでしょう。ぜひ、いっそう学び尽くす、後悔のない人生を歩んでみませんか?

最後に、数学関連のことでこんな記事があったりするのでぜひ読んでみてください。一つの記号の裏にこんな歴史があったとは!!