昔は仏教においては何か作ることを禁じていた。なぜなら、なにか作るとそこに「それは自分が作ったものだ」という固執が生まれるから。

そんな事が書かれていたのをどっかの本で読んだ気がしますが(笑)

まあ、言いたいことは分かりますね。この世界の原理というか法則として、「この世界のすべてのものは自分のものであり、全て自分のものでない」ということは覚えておくといいかもしれませんね。

僕は最近気が狂ったように、『千と千尋の神隠し』についての物語の真実やコンテンツを検討してみるという記事を書いてきたわけですが、今はひとまずある程度はアウトプット仕切った感があります。

今持っているものを出し切ると、あんまり過去の知識や自我に固執しなくなる気がします。次に進むためには全く新しいところへと向かわなければ過去を超えることができない。違うところへと行きたい。本気でやっているとそう思うんだと思います。

宮崎駿が「創り終わったらその作品はお客さんのもの。俺は本気でそう思ってるんだ」って言ってましたが、少しばかりその意図が理解できたように思います。

もっと『千と千尋の神隠し』をより整合性高く見るためには、もっと圧倒的な次元の知識量が必要だと痛感しています。東洋から西洋に至るまでのあらゆる伝統・歴史的・文化的知識。それも実際の経験を含めたものまで千と千尋に集めていきたいと思ってます。

僕としては、歴史を本気で語るためには、数学基礎論や数論幾何を始めとした数学の知識も必要です。歴史で起こったことはそれぞれの時代での無数の可能世界の中から選び出された可能性の一つだからです。本気で歴史を議論するならディベート・様相論理の話し方は必須だと考えています。

様相論理的話し方・ディベート脳、世界中の時空をまたぐ圧倒的な次元の客観的な歴史的知識、現実世界での豊かな経験量(本だけで完結している知識では意味がない。実際に、歴史的建造物などにも行っておかないと分からないことが多い)を併せ持って初めて、歴史について語る資格があると考えています。学問の世界はそのぐらい厳しくてナンボです。

宮崎駿は「幼いときに1,2本の映画に出逢えば十分」って言ってましたね。その感じは分かります。一つの映画を自分の成長と照らし合わせながら、あるときに同じ作品に立ち返ったほうが得るものは多いと思います。個人的には、宮崎駿作品ほど観るごとに感じるものが違う映画はありませんが、、

みなさんも何か質の高い映画を見つけたら、それに自分の学びを結実させてはいかがでしょうか。