南朝も明の臣下として服属していた!
1369年。
明の太祖は征西将軍府に使者を送り、
日本の天皇家の祖先、南朝の懐良親王(kanenaga-sinnou)に対して、
朝貢と倭寇禁圧を要求し、これを恫喝した。
「臣礼をとって朝貢するか、さもなくば自粛せよ。
もし、以前侵略を続けるなら船師を差し向け
その輩を補足殲滅するとともに、国王を縛り上げる」
しかし、太祖の出自が明確でなかったため、将軍府はこれを黙殺。
業を煮やした太祖は、莱州府の高官「趙秩」を差し向け、再び恫喝した。
しかし、征西将軍府はこれを元の使者と思い込み、
一刀両断にせんと懐良親王直々に引導を渡したのである。
「我国は昔から中国の文化を徳としている。
しかるに、蒙古は戎狄のくせに、中華に君臨し、
我国を小国視した。
今また、我を臣となそうとするのか。
むかし、元から趙良弼が好言をもって間諜にきたが、
その後元寇となった。
今又、お前もその手を使うのだろう」
これに対し、「趙秩」は泰然事実を指摘し、大陸の大勢を説いた。
明の記録によると、
親王は衝撃を受けて気落ちし、
自ら庭に下りて「趙秩」の手を取り礼遇したという。
そしてその帰還にあたって、僧「祖来」を同行させ、
臣と称して表文を提出し、
献上品を送ったとある。
また、倭寇が掠めた寧波、台州の七十余人をも同時に送り返した。
これは、征西将軍府が倭寇の元締めであることを
暴露するが如き事態を厭わないという、
外交の一大転換(恭順の姿勢=自分注)を図ったものといえる。
親王はここにおいて、恭順し、
日本国王の封号を受け、朝貢を拝することになる。
太祖は大いに満足し、このときだけは日本使節を歓待した。
=補足=
後年、
足利義満(ASIKAGA・YOSIMITU)が貿易を要請しに明に使節を派遣したが、
正式な国家使節とは認定されませんでした(1374、1380)。
彼の地位が、既に日本の国王と認めた懐良親王(kanenaga-sinnou)ではなく、
軍人に相当する「侍」の最高機関である「征夷大将軍」に過ぎなかったからです。
天皇の「臣下」に過ぎぬ者が直接来るとは何事か!、というわけです。
その後、義満が日本国王と認められたのは、1401年。
武力で征西府を攻略、九州を平定して天皇家を統一し、再び使節を派遣。
第ニ代皇帝「建文帝」から、法号である「日本国王源道義」として、
返書と明の暦を送られました。
明の暦を受け取る、という行為は、服属を認めることの、象徴的行為だったのです。