清国も認めた、李氏朝鮮の心意気!
陳瞬臣氏の著作の抜粋要約です。
朝鮮は明から冊封を受けているのです。
形式的には服属しているのですが、
別に内政に干渉されることはありません。
ただし、緊急の際、例えば秀吉の侵略のような時には
明が援軍を派遣することになっていたのです。
(中略)
1627年、ホンタイジは朝鮮を攻撃しました。
明と対抗する満州は、貿易停止で経済的に打撃を受けていたが
反満的な朝鮮王、仁祖が即位し、
密貿易の抜け道がなくなったからです。
朝鮮を反満的でなくすれば、困窮を打開できます。
この時、朝鮮と満州は「兄弟国」の訂盟を強要されます。
(中略)
崇徳元年乙酉の日
国号を大金から大清に改め、
太祖ホンタイジが天地に祭告して
「汗」から『皇帝』への即位の式を挙げました。
各地から朝賀の人々が訪れ拝礼しましたが
朝鮮の使臣、羅徳憲と李廓だけが拝礼しようとしません。
先に結ばれた兄弟国の同盟は「君臣」の盟ではなかったからです。
ホンタイジが皇帝となった以上、拝礼することは
儒教の論理からみて明以外ニ君に仕えることになり、
汚名を被るからです。
従って、頑として拝礼を拒みました。
そんな奴は殺してしまえ、という議論も起こりましたが
太祖は使者を釈放させ、
国王を非難する書を送り、子弟の人質を要求しました。
朝鮮がこれを毅然として黙殺したため、
太祖の朝鮮親征が行われ、10万の大軍が押し寄せました。
朝鮮王李JYONGは南漢山城に立て篭もり、明の援軍を要請しました。
明の援軍は水軍を準備したが、風待ちで船が出せない。
清の大軍は南漢山城を包囲し、各道からの援軍をことごとく撃破しました。
満州軍は江華島に逃れていた王の家族を捕らえ、
ついに朝鮮は清にくだります。
かようにして、漢江東岸の三田渡で降伏受理の儀式が行われます。
(中略)
朝鮮は清に臣従する国になりましたが、清の領土ではありません。
魏源の「聖武記」によれば
「朝鮮は外藩と雖も実は内服に同じ。
康熙より以後、
国大飢すれば即海運漕糧 以て之を賑わし、
国中、賊を討てば則ち有功の将に万金を頒ち
以てこれを犒う」
内政には干渉しないが、飢饉には救恤し
内乱討伐に巧あった朝鮮将軍には清が大金を与えた
というのです。
諸部族の中で、
ホンタイジが清の皇帝として即位することを
最後まで認めようとしなかったのは朝鮮だけでした。
そのため太宗の親征がおこなわれたのですが、
朝鮮の「節操」には清も大いに敬意をもち、
高く評価していました。
康熙帝は勅諭(1706)のなかで、
「外藩は朝鮮のみ文物を声明して中国に近し。
太宗文皇帝、其の国を親征せし時
八道の諸島の軍至らざる無く
其の国亡びて而して復存す。
国人、碑を文皇帝駐軍の地に樹て
頌徳、今に至る。
其の尤も嘉すべきは明の末造に当たり
臣節を固守し、終始未だ嘗て弐あらず」
私の推測
「諸国の中で朝鮮だけが、中国並みの文明国といえる。
太宗文皇帝の征討のとき全土を覆うほどの大軍が押し寄せたが
国はなくならなかった。
彼らは石碑を立て、功績は今も残る。
彼等の一番素晴らしいのは、明の末期に
忠義忠節を最後まで貫き通したことである。」
と二心のない忠誠を称賛しています。
おそらく、親征当時から朝鮮人の心意気に
満州政権の人たちは敬服していたのでしょう。
嫌韓はよく、清国で一番地位が低かった、とか、琉球以下だったとか、いって、
嫌韓サイトの受け売りで浮かれてますが、あたりまえでしょう。
最後まで清に抵抗した報復でしょう。
ニ君に仕えるのを潔しとしない、といったって、要するにプライドの問題でしょう。
あほらしい、というだけの。
むしろ、いい根性してますね。清もみとめているとおり。
琉球は等距離外交を取っていた海洋通商国家だったので、
清と敵対関係にはなく、
むしろ、貿易相手国として重要だからでしょう。
日本の同時期も、徳川家康に協力しなかった武将は外様といって、
一段冷遇されました。
しかし、
彼らは力をつけ、最後には幕府を倒したのですから。
要するに、侮れない、と清の皇帝が心意気を認めているとおり、
別に冷遇されたからといって、朝鮮人が劣るわけでもありません。
実に低次元、嫌韓流。アホウヨ史観