朝鮮人BC級戦犯
このほど、シンガポールのチャンギー刑務所で処刑された
日本軍のBC級戦犯の遺書が
作家、山中恒氏によって発見された。
同刑務所では、遺書が禁止されていたため、
英文の伝票や地図の裏に鉛筆で書かれたものを
死刑囚房に出入りできた者が密かに持ち出したらしい。
そこには韓半島出身の軍属として処刑された
3人の監視員のものも含まれていた。
京畿道出身の趙文相さんは英語が堪能なため、
監視員と通訳を務めていた。
1947年2月24日
「垂乳根の母が×放れかくばかり
術なきことはいまだせなくに」
(×は判読不能文字)
という日本の短歌を書き、
日本名の平原守矩と署名した。
監視員朴栄祖も歌を残し、
日本名と本名、新井宏栄(朴栄祖)と署名を残した。
さらに、記事には刑務所の日本人教戒師(92)の証言もある。
「一人一人の顔を思い出した。忘れることはできない。」
1947年2月24日の、アリランも歌われた最後の晩餐の席上。
捕虜収容所の監視員だった軍属の金長録(金子長録)さんが
ふと、
「あの世にいったら、日本人とか朝鮮人とかないよなあ」
と漏らした。
日本人将校らはこぞって
「そんな差別みたいなばかなことがあるものか!」
と応えたという。
教戒師は、
「趙文相さんは人の世話をよく見るリーダー役だった。
日本人からも立派な人だと思われていた。」
と証言する。
趙さんは宴の後
「今晩はこれから処刑になるまでのことを
ずっと書こうと思います。」
と教戒師に伝えたという。
「元気で行って来いよ!」
執行の直前、教戒師として最後にそう語りかけた。
「理屈に合わないが、他に言葉はなかった」
教戒師は語る。
軍隊では階級が第一義的に優先するため
民族差別は一般社会より比較的少なく、
貧困だが優秀な韓半島出身者子弟の有望な就職先であったという。
この記事はそういう話に符合する。
