日露戦争の戦勝国は実は英米仏だった!
戦力から見た日露戦争
ソース
大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』、
NHK「その時歴史が動いた」、他
世界はどう見た?
ヨーロッパ中の正式な軍事研究機関は
開戦直後に予想を立てて賭けを行ったようだが、
ドイツ参謀本部を除いて全ての研究機関がロシアの勝利を演算している事から、
賭けは不成立で終わっている。
誰も日本が勝つとは思わなかった。
戦力的にはどうだった?
日本の犠牲者は8万人超(当時日本の人口5千万人)
動員兵力 戦費 戦病死者
日清 24万(17万派兵) 2億円 1,35万
日露 109万(95万派兵) 17億円 8,15万
男性22~3人に1人 30代も動員 傷病合わせて46,3万(半分)
1904年
8月 遼陽会戦 死者 日2万 露2万
10月 旅順攻略 6万4千人中、1万7千人が死傷
1905年
3月 奉天会戦 日24万中7万、露32万中9万人死傷
無謀な突撃で兵力の損耗率3割近い未曾有の超激戦
(軍神の乃木将軍は作戦の失敗で解任寸前で、国民から非難)
日本は弾薬が尽き、戦闘継続不可能状態
戦費消耗、戦争継続不可能。
多面、ロシアにはまだまだ戦争を継続できる余力があり、
予備兵力も物資も十分にあった。
奉天を占領しても、退路絶つ余力なくロシア主力部隊を退却させる
そこで、日本海海戦の勝利で、有利な条件での講和を狙う方針に
5月 日本海海戦
ロシア戦艦4隻撃破 降伏
勝因分析
索敵行動によるバルチック艦隊の経路割り出しが的中
東郷平八郎考案の、伝統的な海賊の戦法を変形させた「T字戦法七段構え」
日本艦隊の速力の優位、砲撃の正確さ、
火力を重視した下瀬火薬(1888年に下瀬雅充が考案)の採用など
リバウから世界の半分という長途にロシア兵士の士気が低下
ロシア南下政策を危惧して成立した日英同盟(1902)により、
バルチック艦隊が日本近海に到達するまでにスエズ運河を使用できなかった事、
アフリカ大陸のイギリス領への寄港を許されなかった事、
ロシア艦隊航行中に英軍艦が妨害していた事など、イギリスの協力も勝因
11万8千の戦傷者とおよそ17億円の戦費をかけ
結局、南樺太半分、その他諸権益得て、
肝心の賠償金は取れずじまい。
だけど、国民は戦争に勝ったと狂気乱舞爆笑
講和の全権・小村寿太郎
「今はバンサイで送られても、戻る時は石を投げられるだろう」
とにかく、無謀な戦略と兵力の浪費で国民の犠牲が大きな戦争だった。
通常の徴兵適齢青年では足りず、30代の働き手まで狩り出した。
実に男性22~3人に1人が動員され、傷病合わせて46,3万(半分)。
日本の社会構成を歪めるほどの深刻な結果をもたらし、
当てにした賠償金が取れず、国家財政は窮乏。
国民の暴動がおきる(最大は日比谷焼き討ち事件)。
建物や電車打ち壊し、死傷者500人、検挙者2千人。
戒厳令がひかれる事態に発展する。
暴動はやがて横浜・神戸に飛び火する。
国民を扇動して熱狂させ、献金や社会奉仕で協力させたつけである。