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可愛い息子達とのハッピーブログ

2009年4月、重症新生児仮死で生まれた息子。奇跡的に助かり(生命力!)
心配だった障害もなく6歳になりました。毎日わんぱくな息子です。
そして2013年4月、待望の第二子の誕生。
男の子二人の子育て、日々の小さな変化や成長を楽しく書いていこうと思います。

NICUに入院して一ヶ月弱ほど経った頃、CTとMRIを撮って脳の状態を見ました。


予め主治医から話があるとのことで、私たち夫婦は個室に呼ばれました。

結果は・・・・・・・・



画像だけみてまず宣告されたこと


○脳室拡大(素人からみてもかなり拡大していた)

○脳室外出血の跡

○水頭症(後天性)



画像から心配なこと


○脳に水が溜まっているため(水頭症)、自然にひいていかなければお水を抜くシャントの手術が必要

○痙攣が2時間もあったことにより脳室が拡大しており、脳室の周りの脳が萎縮の恐れ?

(難しくてうまく説明できません・・・)

○障害が残る可能性が大きい

(特に足の運動神経を司るところが脳のダメージを受けた場所から近いこともあり歩けるようになるかわからない、歩けるようになったとしてもびっこを引いたり何かしら障害が残る可能性も高い)

○知的障害

(成長していかないとわからない、生後五ヶ月で知的障害はわかる頃らしいです)



夫はまたもや貧血になりました。

私はあまりにも衝撃が大きく、目の前が真っ暗になりました・・・

個室を出て、泣いてしまいました・・・


そして息子のいるNICUへ戻ると・・・

「お母さん、お話聞かれましたか、、、」と何人もの看護師さんから言われました。

画像からみてもかなり深刻な状態だったようです。



小さな息子を抱っこして見つめ続けました。


「一生懸命生きてるんだ」

「この子を守れるのは私たちしかいない」


これから未知の事ばかりで、、

自分の精神状態を落ち着かせることはできるのか。

受け入れるってことはできるのか。

考えても考えても考えがまとまらないのです。


その日はほとんど眠れませんでした。

帝王切開でお腹の痛みが残るかと思っていましたが、痛いと思っている時間もなく、毎日搾乳をして車で1時間半離れた大学病院へハンドキャリーする日々が始まりました。


息子の容体は山場を越え、安定していました。


あの頃を振り返ると、看護師さんが口を揃えて「生命力だよね」と言っていたのを思い出します。

それだけ大変な状態で生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです。


私は先の事を考え居る暇もなく、ただ、ただ毎日冷凍した母乳を持って息子に会いに行きました。

沐浴をしたり、オムツを替えたり、歌を歌ったり、全身をタッチケアして刺激を与え、たくさん話しかけたりしていました。


主治医からも

「毎日でも来てください」

「病院はどうしても刺激がないので、たくさん話しかけて刺激をしてください」

と言われました。


初めの頃はミルクも鼻チューブで摂っていました。

少し経ってから哺乳瓶でミルクをあげることになりました。

看護師さんが「生まれた時苦しかった子はゴックンする機能が麻痺してしまうことがある」と言っていました。

その場合、哺乳瓶からミルクをあげても口から飲みこむことが出来ないのです。


まず第一にその心配から始まりました。


とにかくミルクの飲みが悪い。

ゴックン出来ないから?それともまだ小さいから吸う力がないから?

毎日色んな事を考えながらミルクを与え続けていました。

幸い、なんとかゴックン出来ているようで、だんだんミルクを飲むようになってきました。


次に、毎日沐浴するときに裸にさせますが、

どうも両足の動きが硬い気がする…・・


そんな頃だったかな、担当の看護師さんが「寝たきりかもしれない」なんてつぶやいた。。

私はその言葉にすごくショックを受けた。

怒りが込み上げてくるとかではなく、無我夢中で障害の心配とか考えられない時期だったので

現実に引き戻されたというか、見つめなおさなければならない時期が来たのか、

いろいろ頭をよぎり・・・・とても切ない気持ちになった。


でも今できるだけの事をしようと心に誓った。


とにかく毎日不安だった。


入院一か月位経過した頃、主治医がCTとMRIを撮りますと言うことになった。


主人は私の事を気遣い、出産してから数日間は息子の状態や状況を黙っていました。


あとから聞いた話です。


息子は生まれた時 「重症新生児仮死」 とういう状態ですぐに蘇生を行われたそうです。

アプガースコアは1と聞きました。

とても重篤な状態ですぐに病院内になるNICUへ運ばれ処置をされていました。

まもなく、痙攣をしだし薬を投与。痙攣はなんと2時間も続きました。

ようやくおさまった頃に主人は医師から息子の状態を初めて知らされました。


義両親・実母も駆けつけてくれて待合室で待っていました。

主人が呼ばれ医師から言われた事は・・・・・


○重症新生児仮死

○痙攣が2時間も続き、低酸素性脳症の疑い

○重篤な状態であり、設備の整った大学病院のNICUへ搬送します。

  赤ちゃん頑張ってますからお父さんもしっかりして下さい!

  と・・・。



実母から聞いた話ですが、主人は医師から話を聞いた後貧血を起こし、顔面蒼白で部屋から出てきたそうです。。


大学病院のNICU医師と看護師さんが救急車で迎えに来ました。

救急車に乗ってすぐに治療が始まるのです。


主人達は自家用車で大学病院へ向かいました。

それが夜中の0~1時ごろだったと思います。


大学病院医師からは

「とにかく赤ちゃんの生命を助けるために最善を尽くします」と。

○脳へのダメージ

○心臓も弱っている

○血液製剤の輸血の必要


主人は医師から息子の命を助けるための色々な承諾書にサインする。

心臓が弱っていたので血液製剤を必要だったこと。

血液製剤ってニュースで知る限り怖いイメージがあるが、使わなければ死んでしまう。。

輸血して無理矢理心臓を動かすという治療をしていたということだ。


生死を彷徨う状態であったので、写真を撮ってくださいって言われたそうです…

その時の写真がもう痛々しくて・・・・・

頭は鉢巻みたいに巻かれているし、口や鼻・おへそからチューブでいっぱい。



あの時を思い出すと胸が苦しくなり…涙が止まりません。

こんなに大変だったなんて、、、

お腹の中から苦しかったんだね。私に早く気づくように信号を送り続けてたんだね。

生まれてからも苦しくて痙攣を起こしてしまったときは脳が悲鳴をあげていたんだね。。

もっと早く気付いてあげれれば良かったね…。



3日間が山場でした。



市立病院の担当医から4日間は安静と言われていたので、4日後に外出許可をもらい初めて息子と対面できました。

保育器に入って一生懸命に生きている姿を見たら 涙が溢れてきて・・・

何とも言えない気持ちでした。

4日目でかなりのチューブが外れ、補助的に酸素を送るチューブだけになっていました。

回復方向であると聞かされました。



私は10日後、市立病院を退院し、大学病院のNICUへ通う日々が始まりました。