私って可哀想でしょ?
こういう事は言いたくないのですが、私って一般的な目線で見れば可哀想な人だと思うんですよね、父親に虐待されて離婚して転校して転校先でいじめられて不登校になった子供ですから。
可哀想な私で居る意味
可哀想な子供で居る意味、それはある程度社会からの目が優しくなることです。
可哀想だとされている人、つまり弱者を叩くことは社会が許しませんから。
なぜ社会的に弱者とされている人を攻撃することを社会が許さないのか?それはおそらく理論ではありません、感情です。
弱いものいじめという言葉があるように、その理由に関係なく弱者に対する攻撃は肯定されない行動とされているらしいですからね。
少々不謹慎ですが、それを皮肉ったジョークとしてポリコレカードバトルもありますから。
弱者で居られなくなる日
私はまだ相当強い弱者としての属性を持っていますそれは子供であることです。
これは人間以外の生物にも共通しますが、種の存続のため子供は必要です、だからこそ保護されてきました。
しかし死ななければ齢は取るものです、そう遠くないうちに私は子供ではなくなります、そうなれば私は弱者ではない一人の人間に過ぎません、もちろん弱者も一人の人間ではありますが。
日本国籍を有し、大和民族で、男性で、異性愛者で、無宗教で、健常者。
これらは少なくとも日本国内においてマジョリティとされている属性です、誰もが何らかのマジョリティでありマイノリティでもあると考えていますが、少なくとも私は殆どの場合、マジョリティです。
マジョリティは多くの場合、強者側に居ます。
虐待された過去があり、片親で、子供で、不登校。
今私が持っている属性です、後者2つはそう遠くないうちに消えることになると思います、それ自体は別に悪いことではないんです、弱者ではなくなる、ただそれだけですから。
ですが私が弱者であるということさえも失った時、そこにいるマジョリティ側の私はおそらくですが、あまり社会から肯定的に見られないでしょう。
有利な側に居るにも関わらず、それに伴った結果を出せていないでしょうから。
今だって本来否定されるはずです、ですがマイノリティの人を攻撃してはいけない、否定してはいけない、傷つけてはいけない、そんな考えを持つ社会であるおかげで私は今まで社会からは否定されずに生きてきました。
そう遠くないうちに、私は社会から守られなくなるでしょう、子供であることを理由に社会から与えられる、ありとあらゆる危険に対する無条件の庇護、それがいつの日かなくなる、だからこそその日が来る前に庇護がなくても生きていけるよう、学ぶべきことを学ぶ場所が学校です。
ですが私はその学校にさえ行けていません、そんな人間が庇護を失った時、どうなるかは想像に難くないはずです。
社会に放り出される前に
庇護を失って、社会に放り出される日、それがいつか来ます。
叶うならば、そんな日が永遠に来ないことを願いたいですが、現実としてそんな事はありえません。
その日が来た時、社会で何も出来ず死にたくないのなら、生きていきたいのなら、やるべきことがたくさんある、それらすべては出来なくても、何もしないよりは明らかにマシな結果になる、これが私が先日学校に行くと宣言した真面目な理由です。