こんにちは、apiadです。
朝から旅行へ行く隣人と、カラスの縄張り争いによって起床しました。
皆さんも経験ありませんか?
そういう時に少しでも怒りを覚えたことはありませんか?
しかし、「睡眠時間を気にする」という現象自体が、現代人に特有のものであると、最近思い始めました。
どうでしょう。睡眠時間を気にするのは現代人だけだって。ほんとかな。
ひと昔前と今の違いとしては、時計があるか無いかです。
時計?そんなの大した違いじゃないだろうって?
しかし、です。産業革命と、全員一律の時計の導入の時期が重なっていることからも分かるように、時計の有無が、「前効率化」の時代と「効率化」の時代を分けているのではないかと思うのです。
全員一律というのが重要で、これによって人々それぞれが持っていた主観的な時間の概念が、他人と共有される、至極客観的なものに変化していったということです。
そして、時間の客観化に伴い、時間までもが効率化の対象にされていきます。
このサイトに「産業革命は時計の技術が基礎」とありますが、つまり時計が、産業革命による「仕事の効率化」を支えていたということですね。
産業革命中は、同じ敷地内に居住させられている労働者が、朝決まった時間に起き、決まった時間に労働、食事、そして床に就くといった規則的な生活を強いられています。
別に悪いことではないかもしれません。
ただ、ここで重要な認識上での変化があります。
それが、「時間の支配下にある人間」から、「時間を支配しようとする人間」への変化です。
昔の生活は、「日の出とともに起床」「日の入りには就寝」など、毎日一定の動きをしない太陽を基準に生活が回っていました。
これは逆に「太陽に時間を管理されている」と言えるのではないでしょうか?
つまり、「時間を管理する」という発想は芽生えるはずがない。
しかし、太陽と関係なく、客観化された「時間」なるものを認識するようになった我々、そしてその「客観的なもの」を効率化しようとするようになったということは、
「時間に管理される側」から「時間を管理する(しようとする)側」への人間の認識上の重要な変化、
そして
「主体的な時間」から「客観的な時間」への変化
があったのではないかと思われます。
睡眠時間を気にする理由はこれで、睡眠と、だれにとっても変わらない時間という概念を結び付けてしまっている時点でもう時間が客観的なものになっていることが窺えます。(ex.「俺8時間寝たわ」「私も」←本当にこれは同じ時間なのか?)
そして、その 睡眠=客観的な時間 を効率化しようとする思考こそ、実は現代的なものではないでしょうか。
という仮説です。
なにか感想等ありましたら是非お聞かせ下さい。
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