こんにちは!
これは2008年に遡る、自身に起こったお話です
前回投稿した『依存症は病気というお話』の続きになります
タイトル通り『アメリカのリハブ』に入所した時の自身の体験談です
∴アメリカのアディクションのリハビリと言えば、伝わりやすいのでしょうか?
なぜ、この体験をお話しするかというと、ここが、わたしのこの病を克服する出発点にあったという、鍵になっているからです。そして、ここで学ぶ回復のステップというものが、1935年アメリカから始まり、世界各地に広まった自助グルームの集まりだと知って欲しいからです。
そして、この回復ステッププログラムはスピリチュアルベースであり、自分以外の偉大なる存在(ハイヤーパワーに)に謙虚に委ね、一人で頑張らない生き方を学んでいます
(但し、ここに属する我々が公の媒体を使い、このグループの名前を言及してはいけない規約に基づき、ここでは名言を控えますが、調べていただければすぐに出てくる団体です。今では、日本政府もこのグループ名を引用し、この病の克服を応援しているようです。)
まず、このリハブと聞くと皆さんはどんなふうに想像しますか?
私は、ここがどんな意味を持つところかなど全く認識しないで行っていたので、入所後の衝撃が強すぎ、落ち着いてセッションを学ぶどころではなかったのが正直なところでした。(初回はと付け加えておきましょう。 。 。実は、何度もリピートしています)
Sandra Bullock主演の28 Daysはリハブを見事に再現している2000年の映画です
よくアメリカ国内のニュースで有名芸能人が行くと、聞くことがあったので
一般人に向けて、このようなところが存在していることさえ、知らなかったのです
リハブは、まず予約がなければ入所できないほど混んでいます
入所後は完全介護付き、デトックスユニットに入り、大抵の場合3日〜5日程ベッドから這い出ることが出来ない程辛い、デトックスの過程を経て、宿泊キャンパスの方へ行き、そこでは通常28日のプログラムが組まれています。
(上の映画でも、28 Daysがタイトルになっていますが、長期の施設もあれば、男女別の施設などもあります)
男女別に関しては、実際に、わたしもこれまでプログラムの生き方を学んでくる中で、女性と男性のリカバリーの理解や、病気としての症状にも差があるので、プログラム自体のプロセスは別々でなければ殆どあり得ないと感じています。そう、男女の区別は必要だと、結論づけています。
わたしが入所したリハブ施設でも、この28日の期間でのプログラム日程が小刻みに組まれていて、キャンパス内のメンバーおよそ40人ぐらいが共に生活をし、その中で、プログラムを学びながら、ありとあらゆる感情も苦悩も分かち合い、繋がって、助け合い生きていました。
一緒に生活をしていると、ただ、そうなってゆくのです。苦しみを乗り越えようとする者同士が一緒にいる時、人は自然と繋がって、優しく支え合うようになってゆくのですね。
カウンセリングセッション以外には、娯楽を楽しむ練習をしました。これまで、一人で自分いじめをしたり、自分の中の闇と戦ってきた我々には、必要な時間だと実感する時間を過ごします。ボーリング、テーブルテニス、ゲームをしたり、歌を歌ったりする時に、少し照れていた事を思い出します
最初はこんなこと?って感じながらも、気付くと皆んな笑っているんですよね
一人の戦いを諦めると、みんな笑い合えるとまた教えてもらっていました
ここに来る人たちのストーリーは様々ですが、ここに辿り着くまでの悲痛、強烈なストーリーを確実に持っている人達がいたのです
正直、アメリカの生身の凄さを感じざるを得ない世界でした
リハブの初日、オリエンテーションで、管理者が前に出て言った言葉がとても怖かったのです。
『もしこの中に殺人などの犯罪を犯している人がいたら、この施設内のスタッフに話すと警察に通報する必要がある事を理解しておいて欲しい』と注意喚起を聞いた時、自分がこんなところにいるのは間違っているのではないか?と感じるところから始まる28日はきっと、この中の誰よりもわたしが長いと感じていたはず
では、どのように、わたしがここに辿り着いたのかの経緯をお話ししますね
当時、アメリカ中西部のある州のとある大学街にいて、旦那様とティーンの息子と平穏な生活をしていました。そして私はというと、地元の大学院で Fine Artを学びに通い始めたところでした基本、大好きな絵を描いているだけの、幸せに浸っていられるような時期を過ごしていたように思います
そんなある日、日本の母から国際電話ー
兄か事故に遭い、即死したとの悲しい知らせを受けました
そんなの信じられない。 。 。
その翌日、家族3人で日本に飛び、
冷たくなった兄に会うのでした
さよならを言わずに逝ってしまった兄との別れの悲しみを、私はここから長い時間を掛け、私は自身の心とそして感情と戦っていったのです
ーーーーもし、ここでこの感情をオープンに人に話せていたら、どうだっただろう?
アメリカへ戻り、当時通い始めていた大学院へ戻るタイミングを失い、人に会う元気を失い、日中を一人で過ごしながら、気づいてみると、悲しみを癒してくれるものがアルコールになっていました。
ーーーー人ではなく、物質に繋がり、悲しみを表現することが出来なくなっていた
鎮まらない悲しみと、日本にいる両親、祖母への想いが重なり、終止符がつけられない心を慰め、注いでいたものがアルコールという優しい悪魔でした
ーーーー感情と向き合わず、物質に依存し、大切な感情を紛らわしていた
手の震えは止まらず、食事をとることもままならず、アルコールのみを体にいっぱいにして、吐いては飲みを繰り返すようになるのでした
この段階で、既に肉体、メンタル、感情面も精神(霊性)も病んでいます
悲しみを凍結させ、胸の奥に仕舞い込み
一人で戦うことの恐ろしさ
アルコールの中毒性の恐ろしさ
を私はまだ知らないでいたのです。アメリカのリハブ/リハビリに行くまでは。 。 。
依存症という病気と言いましたが、厳密に言えば、依存症は症状であって、根源は自分の中にあります。アルコール自体が問題なのでもなければ、ドラッグ自体ではなく、自分の中にある闇(自身で整理ができないもの)です。これがなんであるかを理解して、わかってあげてコントロールするまでは、この病の克服はあり得ません。
ここから、必要な人達にメッセージが届いていったら、どんなに甲斐があるでしょう
では、また!
パートナーRyokoさんの先日のブログのこのお料理は、毎週月曜日に用意していただいている
非常にヘルシーメニューなのです。感謝です