1月14日  19時50分頃、

父から電話がかかってきました。

入院中の祖父について、「いつ亡くなってもおかしくない。」と聞かされていたので、なんだか嫌な予感……。

電話に出ると、「じいちゃんの呼吸が停止したと病院から連絡が入った。母さんが動揺しているから、今から二人で病院に行ってくる。」と慌ただしい話し声が聞こえてきました。

嫌な予感がしていたものの、やはりショックで
父親の声も遠く聞こえるし、心臓の動きがゆっくりになったのが分かりました。

一番聞きたくなかった言葉。
じいちゃんっ子だった私は、祖父が居なくなるなんて考えられなかった。
いつも居るのが当たり前だったから。

遊びに行くと、「よく来たなほっこり」って大喜びで出迎えてくれた祖父。。

夫と結婚の挨拶に行った時も、「孫が一人増えたようだ」って喜んで泣いてくれた祖父。

色々な疾患で入院するたびに、「じいちゃん頑張って治療して帰るからねほっこり」って私に心配かけないように気丈に振舞ってくれていた祖父。

どんな祖父も、温かくて大好きでした。

今回の入院は、私がインドネシアから帰国した直後のことでした。

「肺炎」の症状が出にくいのは
高齢者の特徴なんだそうです。

咳や発熱等もないのに、
なんとなく食欲がない。
なんとなく動きたくない。
たったこれだけで立派な肺炎の症状なのだそうです。

祖父が入院した際は、重症に近い感じだったそうです。

よく「死因  肺炎」と聞きますが、
本当に高齢者にとっては重症化するまで気付きにくい恐ろしい病気なんですね…


12月上旬に入院し、
12月中旬に病室のベッドから転落して意識不明。
(この頃に、私はお風呂で不思議な体験をしています)
12月下旬に意識は取り戻したものの、手足を拘束されていました。

この間は、まだ私と普通に会話が出来ていました。

最後の会話になったのは、1月4日です。
この日の夜から昏睡状態に入りました。
ちょうど祖母の誕生日でした。

「婆ちゃんの誕生日まで頑張って待ってたのかな。」と思いました。

祖母も祖母で、尾てい骨や恥骨などを骨折してしまい、別の病院で入院中だったのですが、

祖父のお見舞いに行く度、

祖父 「婆ちゃんどうだ?元気なのか?」

私 「爺ちゃんに会いたがってたよ」

祖父 「じゃあ早く見舞いに行ってやらないとな。あ、いつ行くかは言ったらダメだぞ。退院できる日がいつか分からないんだから。」

私 「だから早く良くならないとねほっこり

と毎回同じ会話をしていました。

ですが、昏睡状態に入る直前の1月4日…
最後の会話はおかしかったんです。

私 「爺ちゃんほっこりお見舞いに来たよ」

祖父 「…すみませんが、そこのトラックを移動させて下さい。」(病院の廊下を指さして)

夫 「トラック?トラックなんて居なかったよ?どこに居たの?」

祖父 「そこにトラックが停まってて、大男が二人で乗ってるんです」

……なんだこれは?認知症なのか?と思ったんですが、
後から妹に聞くと「せん妄だと思う」と言われて納得。

そして、肺がほとんど機能していない祖父は、
ゆっくりこちらに向かって話しかけ、

「申し訳ありませんが、もう出ていって下さい。
私は治療中なので苦しいんです。相手をしている余裕がないので、もう行って下さい。
必ず退院しますからその時にまた会いに来て下さい。」と私と夫に向かって言ってきました。

爺ちゃん、、私が誰か分かる?と尋ねても答えません。

私のことは「知らない人が自分に会いに来てくれた」と認識している様子。

手足を拘束されているから、自由にもならず、足が痛い足が痛い!と必死に訴えていました。

足をさすってあげてビックリしました。

骨しかないんです…骨の上に薄皮が乗っているだけの状態。

2ヶ月前は元気だったのに…
こんなにあっという間に衰弱するものなんだ…

その間も、「お宅、どちら様か存じ上げませんが、さすってもらえるだけで足が楽になります。ありがとうございます。」と呟くだけ。

長居すると喋っちゃうし呼吸も苦しいだろうな…と思ったので、「爺ちゃん…また来るね。絶対元気になってよ。」と病室を出ようとした時、

「api  気をつけて帰りなさいよ。」と後ろから声が。

振り返ると、「api  爺ちゃんも一緒に帰りたい。連れて帰ってくれ。婆ちゃんのとこにもお見舞いに行きたいから。」と、縛られた足を動かそうとしていました。

私と夫が帰る姿を見て、私達のことをはっきり思い出した感じでした。

「またすぐ来るから大人しくしてなきゃダメだよ。帰れるように看護師さんにお願いしてみるからね。」と祖父を振り切り、急いで廊下に出て号泣しました。

たまたま出くわした看護師さんに、
「祖父が足の痛みを訴えているので、何とかなりませんか」と相談し、
「足だけ自由にしますね。でも手の拘束は外せません。人工呼吸器や点滴を外してしまうので、申し訳ないけど拘束しなければ死に繋がりますので…」と言われました。

この日が、祖父と会話した最後の日になりました。


それから1週間後に、死直前の「下顎呼吸」が始まり、妹から「下顎呼吸が始まっちゃったからもうダメだと思う…経験上、2~3日。長くて1週間かな。」と言われました。

その3日後が、1月14日でした。

妹が言った通りの結果になってしまいました。

祖父が大好きで大好きでしかたない私はずっと号泣していて、夫が「これから会ってこよう」と夜だったんですが入院先に連れて行ってくれました。

それが、1月11日のことです。

病室に入ると、祖父は口を目一杯開けて、顎で呼吸をしていました。
とても苦しそうでしたが、看護師さんは「下顎呼吸が始まると、ご本人はそこまで苦しくないんですよ。苦しそうに見えちゃいますけどね。」と。

爺ちゃん!!と声をかけても、
目を瞑って下顎呼吸をしたまま、反応せず。

夫も、「苦しくないですか。喉かわいてないですか。」と声をかけてて。

私が夫に、「連れて帰りたかった!あんなに帰りたがってたのに!婆ちゃんの病院にも行きたがってたから連れて行ってあげたかったよえーんえーん」と泣くと、

ベットがミシミシと音を立てたのが分かりました。

ほんの少しだけど反応したんです。

夫が急いで「おじいちゃん!おばあちゃんに会わないと!みんな家に帰って来るのを待ってるんですよ!」と声をかけましたが、

目は開けずに下顎呼吸をしたまま、手?を動かそうとしてるのが分かりました。

しばらく二人で声をかけてたのですが、たまたま実家の両親も来て、交代。

そのうち面会終了の時間になり、泣く泣く帰宅しました。

医師いわく、「聴覚は最後まで機能してると思います。意識がなくても話は聞こえてるんですよ。」と。

だから私の言葉に反応したのかな。。

91歳でした。
大往生だと言ってくれる方ばかりですが、
私は諦めきれませんぐすん
もっともっと一緒に居たかった。

14日から今日まで、一生分の涙かと思うほど泣きました。

せめて最後は自宅で…ということで、
葬儀場ではなく祖父母宅での葬儀となりました。


ここのソファーにいつも座ってたな…
ここでいつもご飯食べてたな…
ここで遊んでもらってたな…
ここでいつも本を読んでたな…

そういう何気ない風景が蘇ってきて、
すごく辛かったです。

私がイタズラして祖母や母に怒られてても、
無条件に守ってくれた祖父。

理不尽なことで母から怒られてた時も、
「apiは良い子なんだから、そんなに叱るな。お姉ちゃんだからいつも我慢してるんだぞ!そんな子をそんなに叱れるのか!」と庇ってくれた祖父。

結婚が決まった時、
「apiのドレス姿を見るのが楽しみだ」と、私の花嫁姿を想像して泣いてた祖父。

本当に本当に大好きでした。大切な存在でした。

夫は公務員でもないサラリーマンですが、
震災時や悪天候時でも、国のために機能してなければならない仕事。

そのためいつも、「apiこんな時に一人で大丈夫か?爺ちゃんが近くに居たら行ってあげれるのになぁ。」と心配してくれて、

夫に対しても、「そういう職業なのは立派だし、多忙なのは分かるけど、身体だけは大切にしてくれよ。遠くからだけど見守っているからね。」と配慮してくれてた祖父。

最後まで、私と夫のことを「可愛くて自慢の孫だ」と周囲に話していたそうです。

どの孫も可愛いけど、やっぱり初孫のapiは特別だ。apiを大事にしてくれてる〇〇も、俺にとっては6番目の孫だ、って。

伯父さんも、「apiが一番可愛がってもらってたから、じいちゃんとの別れが辛いだろ。」って言ってた。

祖母は、特例で一時退院し、無事に祖父を見送ることができました。

お通夜が始まる前から目が腫れている私。

死亡直後に病院へ向かった両親や伯父夫婦からは、
「最期は苦しまなかったって。とても安らかな顔だったよ。」と聞きました。

祖父の顔を見るのが嫌でした。現実を受け入れたくないから。

だけどお礼はいっぱい伝えたいから、恐る恐る棺を開けてお顔を見ました。

お人形のような無機質な感じでしたが、
とても穏やかに横たわっていました。

大好きだった煙草を入れてあげて、
「爺ちゃん お家に帰ってこれたね」って言いながらまた号泣。

初孫である私と、最後の孫である5番目が大号泣。

葬儀の間、あちこちから泣き声が聞こえてきました。
祖父を慕って下さっていた方が多く、
「昔、本当にお世話になったんです」と多くの方が参列して下さいました。

皆さん私を見て、「孫娘が可愛くて、目に入れても痛くないっていつも仰ってましたよ」と声をかけてくれました。そして、「とても可愛がっていた孫娘にそんなに泣いてもらえたら、今頃じいちゃんも喜んでいるだろうね。」とも。

お通夜が終わって会食している間も泣いている私を見て、祖母に「そんなに泣いてたら、apiが心配で成仏できなくなっちゃうよ。」と叱られました。

だけど、いつかじいちゃんの声も忘れちゃうのかな。。
忘れたくないな。


翌、告別式の日。

じいちゃんの棺に、お花を入れてあげました。

みんな無言で入れていくから、私は声をかけました。

「じいちゃん今までありがとう。生まれ変わっても、また私のじいちゃんになってね。」と。
この言葉は、じいちゃんに絶対伝えたかった言葉でした。

言っててまた号泣。

火葬場行きのバスに乗り込み、ずっと棺に寄り添っていました。

火葬される時もまた、「じいちゃんありがとう。大好き。」って伝えました。

何回お礼を伝えたか分かりません。
だけど、それでもまだ伝え足りない。
たくさんの愛情をもらったから。

1時間半ほどで火葬が終わり、御骨を拾いました。

骨が太くて、みんな「こんなに骨が太い人、初めて見た」って言ってました。

悲しいはずなのに、祖母は気丈に振る舞っていて「やっぱり昔の人は凄いな…」と実感しました。
私みたいにメソメソしてないもんね。。
(自宅に戻った直後、祖母は疲れがドッと出たのかソファーに倒れ込んでましたが…)

伯父さんに、「遺影はapiが持ちなさい」と言われ、
火葬場から自宅まで、ずっと遺影を抱き抱えていました。

遺影を抱き抱えながら、

「私が生まれた時、じいちゃんずっと抱っこしててくれたって言ってたな…
34年後の今は、私がじいちゃんの遺影を抱っこしてるのか…」と思い、また号泣。

バスが自宅に着く頃、「もう着くよ」と遺影に話しかけました。

母の兄夫婦は、二世帯住宅で祖父母と同居してます。
だから祖母は一人ぼっちではないけど、
祖父にしてあげられなかった事を、祖母にしていこうと思っています。

告別式が終わり、祖母は再び入院先の病院へ戻りました。
骨折が回復したらすぐにでも退院できるんでしょうけど、高齢ですから無理はしてほしくないですね…。

49日が済んだら、母の兄夫婦には区切りの意味で、「お疲れ様でした。祖父を守ってくれてありがとう。」の意味で、何か健康グッズ的なものを贈ろうと思っています。

絶対疲れているはずですからね。。

大切な祖父を亡くし、改めて思ったことがあります。
「祖父からもいただいた命なんだから、きちんと生きよう」ということです。

いつ祖父に見られても恥ずかしくないように。
立派な生き方をしていきたいです。

「死にたい」「死ね」などの言葉を簡単に使う人が許せません。
世の中には、生きたくても生きられない方が沢山いて。
そんな簡単に使って良いはずの言葉ではないんですよね。



夫と婚約した時に、祖父から言われた言葉

私へは、
「夫のために一生尽くす努力をしなさい。愛情をかければかけるほど、それが男の活力となって、男はもっと妻を守るために頑張れるもんだ。」と言い、

夫へは、
「まだまだ至らない所が多い子です。でも、愛情かけて育てた分、人の愛し方も分かっている子だと思うから、多少のワガママは許してやって、一生かけて幸せにしてやって下さい。」と頭を下げたそうです。

祖父からいただいた命、大切にしてこれからも生きていこう。
それが一番の祖父孝行なのだと信じています。


最後に……
これは虫の知らせだったのかな。

本当は結婚記念旅行、大好きなヨーロッパに行く予定だったんですけど、土壇場でなぜかバリ島になったんですよね。

そのついでに、インドネシアで祖父がお世話になった御家族に会いに行くことにもなったわけなのですが…

ずっと「最後にもう一度インドネシアに行きたい」って言ってたもんね…

その願い、私が叶えてきたからね。

「マヤさんの子孫の方々、元気だったよ。じいちゃんの事も知ってたし、あちら様もじいちゃんにお礼を言ってたよ。
じいちゃんが建設した〇〇もきちんと残ってたし、現地の皆さんもとても感謝してるって話してたからね。」と伝えると、嬉しそうに「そうか」と笑っていた祖父。

夫がマヤさんのご子息様やお孫さん達に、祖父の死をLINEで知らせたところ、「とても残念です。ですが、我が父とあちらの世界でも仲良くしてると思います。」と返信がありました。