角番の、でもまだ角番生活をスタートできていない、冬の話です。
仕事で、私が作った資料に対して、クライアントが仰った言葉
「結論は、何でもいいんです。」
収集したデータがあって、それをある視点で分析し、結論がでる。
その視点が何なのか、どう分析したのか。それが伝われば、結論は(極端な話)何でもいいわけです。と。(というか、ロジックが外れてなければ、結論はおのずと導かれるから?)
○○さん(私)が、結論はこうだといえば、そうなんです。それを疑ったりしない。と。重要なのは、何を視点として、結論をどう導いたのかというロジックを示せているかだと・・・。
私がやったから、こうなった。こういう結論が出た。という仕事をしてはいけないし、したくないんだと、その頃は、一つの言葉を書くのにも神経質になっていましたが、その言葉を聞いて、ロジックを構築する(ストーリーをつくる)のは、「自分」なんだと。とても単純なことに気づきました。
ふふ、私は、やっぱり、「ロジック」より「ストーリー」のほうが、しっくりくるなぁ。
やっていることは、同じなんだけど。
***********************************
この間、書いたとおり、角番のときに、自分の思考を整理するということをやっていました。
どうして、こちらに進んだのか。どうして、これをここに置いたのか。
でも、、、、あんまりこれやりすぎると、なんかよくわからくなったりするのは、私だけ?(笑)
どんどん、「課題を解く」ということにばかり気持が傾いていったような気がします。(試験が終わってから、感じたことですけど)
やっているうちに、何をするのにも理由がいって、理由が示せないものは何にもできないようになってくるというか・・・。
確かに、課題文ってとてもとても重要です。課題文のメッセージを読み取らないと。
一方で、課題文がはっきりと示してくれるものしか、できない。
自分の中で、咀嚼するということができなくなってしまったのかなぁ、と。
「いやいや、課題文が示したものが、できてたらいいんじゃない」って思いますが、
でも、結果を見るとできてないんですよ。(私の場合。むしろ、逆方向に走ってる(泣))
そこに、「自分」がいなかったからかもしれません。(君の場合は、「自分」は封印しておいたほうがいいでしょ。ってつっこまれそうだけど(泣))
少なくとも、それが建物になっているのか、空間になっているかを見極める自分はいないと・・・。
「課題文」だけでもだめ、「自分」だけでもだめ。難しいなぁ・・・。
今年からは、なおさら「自分」がいないとしんどいかもしれませんねぇ。
(だから、国語力をやるんですかね。あんまり、やらない子だったので・・・。反省。)
ウラ指導でも、製図の講習会で、「国語力」やったりしてますよね。
「なんで国語力を(講習会で)やるんですか?」の受験生の質問に、
「一番、大切だから」との答え。納得!
合格してから・・・「やってなかったでしょ」って言われたけど
あは。
※そういえば、アコーディオン奏者のcobaさんがテレビで「8割は、論理。残り2割はインスピレーション!」って言ってました。な・る・ほ・ど!
まぁ、アコーディオンと製図試験は、一緒じゃないですけど(汗)
仕事で、私が作った資料に対して、クライアントが仰った言葉
「結論は、何でもいいんです。」
収集したデータがあって、それをある視点で分析し、結論がでる。
その視点が何なのか、どう分析したのか。それが伝われば、結論は(極端な話)何でもいいわけです。と。(というか、ロジックが外れてなければ、結論はおのずと導かれるから?)
○○さん(私)が、結論はこうだといえば、そうなんです。それを疑ったりしない。と。重要なのは、何を視点として、結論をどう導いたのかというロジックを示せているかだと・・・。
私がやったから、こうなった。こういう結論が出た。という仕事をしてはいけないし、したくないんだと、その頃は、一つの言葉を書くのにも神経質になっていましたが、その言葉を聞いて、ロジックを構築する(ストーリーをつくる)のは、「自分」なんだと。とても単純なことに気づきました。
ふふ、私は、やっぱり、「ロジック」より「ストーリー」のほうが、しっくりくるなぁ。
やっていることは、同じなんだけど。
***********************************
この間、書いたとおり、角番のときに、自分の思考を整理するということをやっていました。
どうして、こちらに進んだのか。どうして、これをここに置いたのか。
でも、、、、あんまりこれやりすぎると、なんかよくわからくなったりするのは、私だけ?(笑)
どんどん、「課題を解く」ということにばかり気持が傾いていったような気がします。(試験が終わってから、感じたことですけど)
やっているうちに、何をするのにも理由がいって、理由が示せないものは何にもできないようになってくるというか・・・。
確かに、課題文ってとてもとても重要です。課題文のメッセージを読み取らないと。
一方で、課題文がはっきりと示してくれるものしか、できない。
自分の中で、咀嚼するということができなくなってしまったのかなぁ、と。
「いやいや、課題文が示したものが、できてたらいいんじゃない」って思いますが、
でも、結果を見るとできてないんですよ。(私の場合。むしろ、逆方向に走ってる(泣))
そこに、「自分」がいなかったからかもしれません。(君の場合は、「自分」は封印しておいたほうがいいでしょ。ってつっこまれそうだけど(泣))
少なくとも、それが建物になっているのか、空間になっているかを見極める自分はいないと・・・。
「課題文」だけでもだめ、「自分」だけでもだめ。難しいなぁ・・・。
今年からは、なおさら「自分」がいないとしんどいかもしれませんねぇ。
(だから、国語力をやるんですかね。あんまり、やらない子だったので・・・。反省。)
ウラ指導でも、製図の講習会で、「国語力」やったりしてますよね。
「なんで国語力を(講習会で)やるんですか?」の受験生の質問に、
「一番、大切だから」との答え。納得!
合格してから・・・「やってなかったでしょ」って言われたけど

※そういえば、アコーディオン奏者のcobaさんがテレビで「8割は、論理。残り2割はインスピレーション!」って言ってました。な・る・ほ・ど!
まぁ、アコーディオンと製図試験は、一緒じゃないですけど(汗)