小さい小さいもんがいくつもいくつもひっついて、そんで一つのモノは構成されるわけです。
私という人間は、所詮目立ちたがり屋なんですけどね。
いや、前に出て・・・という単純なものでなく、人に認めてもらってなんぼと思ってるんです。
自分自身というものが不安定すぎて、自分で自分と認識できないから。
表だってやるのは好きじゃないんです。
っていうか嫌い。苦手。
私を見るなといいたい。
そんな自身を目立たせるためにある方法ってのが「作品」を表に出すって事。
自分は裏方であったり、作者でありたい。
評価されるべきは排泄されたソレ。
自分自身が駄目だったわけじゃなくて、とらえ方なんて人それぞれだし、作品に対する評価が駄目でも自分が悪いわけじゃない。と言い訳もできますしね。
だからこそ劇を裏方から見守るってのが好きです。
完成したものを見るときの感動は、何度味わってもいいもんです。
自分が居て、その劇があるっていう。
実際のところ…私が参加しない方がいい出来なんじゃね?と思うときは多々ありますが。
でー、ここからが本題。
劇をつくるピースはその場を自由に動く存在です。
誰にも制限することはできない。
しかし統括は出来る。
そういうもんです。
自分というピースがどういう風に動くかに他人は関係ないのよ。
人に言われたからやるってのは
「人に言われて、それを自分が自分の意志でやることを決意して動いた」
っていうことで、言った人の所為にするのはお門違い。
中学の先生で
「君たちは決められたレールをただすすむロボットであっていいのか!」
と言った方が居ましたが…
レールを選ぶのだって自分の意志ですよ。
ちなみにここで
「分かった!私、自分の意志で頑張る!」
と言わせたいその先生は、私たちに「命令を聞くロボットであれ」と言ってるのと変わんないと思うんだよね。
当時はこの一言に勝手にキレてました。
自分がやんなかったのを人や環境の所為にして、いったい誰を不快にさせたいのか。
目的は?
その根拠は?
生活歌っちゃうぜ?
他人を見て、顔いろ見て、自分が見たものだけを真実ととらえて。
周りの事を知ろうとはせず。
文句だけ言って。
落胆させるなよ。
そういう感情は自分だけで処理しようよ。
どうして人を思いやれないんですか?
あなたのことを思いやってる人がいるとも知らずに。
思いやるとか思いやらないとかは、当人だけの一方的な感情でしかないです。
だからといってそれを踏みにじって良いとはならないじゃん。
誰かが「お前を思いやってる」と言ってるから、その人は思いやりの心を持っていると言えるんですかね。
言葉だけで伝わらないことってあるし。
そこは最低限察しろよ。
自分は傷つきたくないけど、自分を正当化するために相手を傷つけるわけですね。
傷つけていると、うすうす感じながらも蓋をして。
自分は間違っていない。今の現状は正しいものだと思いたいわけなんですね。
分かってるけどムカつくもんはムカつくよ。
はぁ、なんか気持ち悪くなってきた。
もう、本当、いいかげんにしてくれ…自分。
自分の身勝手さには嫌気がさします。
本当に嫌いだ。
どうしてこういう性格なのか分かんないや。
細かいとこだけ気にして、大きいとこから目をそらして。
穏やかに生きたいのにできません。
あー憂鬱