私は決めている。どういう老女になりたいか?
外見はどうであれ、草笛光子さんのような
生き方が理想である。歳を重ねるのが美しい
と思わせてくれる女性である。女優と一緒に
してはならないが、こ綺麗に年齢を重ねたい。
外側は朽ちていっても、内側が充実感で満ち
た人というのは表情に生気が漲っている。
究極的には、生と死を受け入れた人間だけが
突き抜けた表情だと私は思っている。
この品性というのは、どこからくるものなのか
私は疑問だった。小手先の美しさではないこと
は明らかだ。昨夜のロマ書の学びで、パウロが
義認を受けた信徒たちは、イエスの恵みへの
アクセスを受けることで、試練の中において
喜べると言うのである。この世的には『は?』
である。が、確かにどのような人においても
程度の差はあれど、患難や試練は襲ってくる。
キリストにあって、恵みにアクセスできたら
試練に対する受けとめ方が変わると言うのだ。
この過程に品性が働くというのである。
患難+恵み=忍耐
忍耐+恵み=練られた品性
こういう霊的な部分が聖霊によって変えられて
いく過程で、より魅力的なイエスの似姿に日々
変えられていくわけであるから、楽しみである。
今日のクレイの学びは出エジプト5章である。
パロがモーセに対して「主とは一体何者だ?」
というシーンである。この場面、境遇は違えど
ピラトが後半イエスに「真理とは何か?」と
聞く姿勢と重なる。無知とは恐ろしいものだ。
神を目の前にしても、自分の発する言葉の先
を判断できないのからだ。どんなにこの世の
権威を振り回しても、霊的に見れば憐れである。
この憐みを相手に持てるかどうかが試される
シーンでもある。この世には、考えられない
物騒な出来事、不可解な出来事が起こる。
そんな時に、その相手の表面を見るのか。
その相手の呪われた霊の状態を見るのか。
そこに、憐みをイエス同様に持てるのか。
いろんなことがこの箇所で自分に訴えかけた。
1日1章の学びは創世記33章である。ヤコブが
兄エサウと再会を果たして和解するシーンだ。
20年ぶりの兄は、ヤコブ同様に祝福されて裕福
で過去の感情からは解放されていた。あれだけ
ヤコブはこの日のために、あれやこれやと備え
ていたのにも関わらず、取り越し苦労であった。
神は、20年前に一杯のスープで長子の権利を
簡単に渡した霊的な洞察力が欠落した兄エサウ
にもヤコブ同等の祝福を与えていることが分か
る。ここに、慰めを感じる。一方ヤコブは気が
抜けたのか、目的地の一歩手前の地で一年半も
天幕を張って過ごしている。ベテルに向かえば
いいものを、シャケムに留まってしまう。
これが後に事件を起こす前触れとなるわけだ。
どんなに神がイスラエルという名前をヤコブに
与えていても、霊的資質が育っていないヤコブ
には、数々の試練がこのあと待ち構えている。
魅力的な人物には、試練がある。その試練を
通じて、霊的にも鍛えられて聖化されていく。
品性とは簡単に身につくものではないことを
学んでいる。
今日も自分の自我ではなく、神の御心が何
なのか探りながら恵みと信仰によって歩んで
いこう。