祝日・週末の朝は人の通りが極端に少ないため
運動の時間が、より一層快適で清々しい。
雨天でない限りは、中止することはない。
室内での筋トレも日課となっていて日々の変化
を味わい中である。健康なくしては何もできず
全ての点において、管理力を鍛えられている。
そんな中で、毎晩ロマ書を学んでいる。人間的
な誇りに一切頼らず、イエスの主権と恵みに
信頼する生き方を黙想している。ユダヤ人が
割礼やモーセの律法にこだわるように
異邦人も洗礼や規律にこだわることが多い。
ところが、聖書は一貫して「恵みと信仰」に
よってと書いてある。頭で理解しているようで
心に浸透していない。古い体質の自分のクセが
完全に抜けきっていないようだ。
今朝のクレイは出エジプト4章パロの心を頑な
にされるシーンである。この出来事を通じて
神の主権と人間の自由意志を知る場面だ。
十数年前、自分が神から見放されている出来事
があれこれ起きていた。その時の私の胸中は
この出エジプトのパロの心そのものであった。
頑なで、恵みなんぞどこにあるのか?とひねく
れ信仰を捨てて、霊的に完全に堕落の道を下っ
た。人間側の自由意志の使い方の誤りである。
人というのは、いつも紙一重の部分で生きて
いると感じている。信仰的に歩んでいるかの
ようでいて、実は脱線していることがある。
だからこそ、毎日の霊的答え合わせが必要だ。
人のことをあれこれ言う時間はない。自分の
管理で精一杯のギリギリで毎日を生かされて
いるからだ。神の主権を認めるには御言葉に
触れて、清めていただくことに尽きる。そこ
に神のメッツセージが語られるからだ。
1日1章の学びは創世記29章である。ヤコブ
が叔父ラバンに欺かれるシーンである。これ
は、父ヤコブを欺いた種の刈り取りである。
ラバンだけではなく、その娘レアにも欺かれ
2人の妻をめとることになる。愛していない
姉レアの子を持つのだが、ここからメシアの
系図が誕生するのを知ると、神の摂理の御手
を感じる。この箇所を見ていると自分の歩み
と霊的な刈り取りの苦さがリンクする。私も
苦い痛みを伴う刈り取りの体験を経ている。
理不尽な状況下を通らされ、ヤコブのように
忠実に高潔な思いで、仕えることができなか
った。ヤコブは7年に加えてラケルの花嫁料
の分のさらに7年ラバンに仕えている。
忍耐力の限りを尽くせるヤコブに驚嘆する。
私の場合は、一目散に逃げ出したありさまだ。
天から神は見下ろして「こいつは根性がない」
と思ったに違いない。そうだ、私は根性がない。
逃げ足は誰よりも早い。しかし今後は逃げ癖か
ら、腰を落ち着ける人間へと変えて欲しいと願
っている。ヤコブのようにどっしりと腰を据え
た中に信仰が成熟するからだ。高潔なヤコブの
姿勢に励まされる。のちに名前がイスラエルに
変わるのも納得の人である。
今日も頑張るのではなくて、恵みと信仰により
歩んでいこう。