教会を離れて十数年経過する。そして再び聖書を

学び直して数年が経つ。その中で私は今までの

人生の棚卸しをしている。どこで信仰の歩みを

踏み外したのか?その原因は何だったのか?

それは、余りにも人間的な評価や形式に偏って

いた。そういうものだと認識していたからだ。

私は今まで2つ教会に通ったが、いずれもメッ

セージは聖書の御言葉が2割で残りの8割は世

界中の例え話を使った感情に響く信仰話で完結

していた。または救われた証(信徒)の話とポ

ットラックによる交わりで毎週の日曜日が過ぎ

ていた。そのほかにキャンプや賛美集会等々イ

ベントは多いのだが基本となる御言葉の理解は

乏しいままであった。こういう教会は多い。

 

 

 

目線が常に子供に合わせられていて、大人向け

の知的理解の時間が乏しいと、教会へ行く目的

が次第に分からなくなることがあった。2つ目

の教会では、あれよあれよという間に宣教師の

按手を受けたが、その根拠は伝道した人の人数

で決められるという不思議な理由であった。

弟子訓練の内容も、今から振り返ると聖書とは

別の異質なものである。ペンテコステ派に近い

全ての点で大げさな表現がこの教会の特徴だっ

たのだろうが、今となってはカルト集団では

なかったかと疑う。この教会以降は一種のトラ

ウマを抱くようになり、教会通いは避けている。

 

 

 

クレイの学びは出エジプト4章神からの準備の

シーンである。神ご自身がパロにイスラエルの

民を神に仕えさせなければ、初子を殺すと命令

を下される。これから起こる出来事の内容を神

は、モーセにも分かるように具体的に示されて

いる。この時のモーセの胸中を神は知っている。

だからこそ、これから起こるパロとの戦いは

神との戦いであることを分かるように示すこと

でモーセの士気を高めているようにも思う。

契約の民であるイスラエル人をここで神は

「私の初子」と表現している。一方的な選びの

民に預かる恵みが、今、キリストにあって一方

的な恵みの中にある自分と重なる。神の愛の下

で献身していくモーセには、これから起こる事

への心の準備と、知的理解を備えている。

 

 

 

 

1日1章の学びは創世記28章である。ヤコブが

兄エサウから逃げて、神が準備された場所

(ベテル)行くシーンである。その途中で

彼は夢の中でハシゴで天使が天と地を上り下り

する場面を見る。階段の頂上には神の栄光の光

を見る。ヤコブの胸中は失意のどん底であった。

家族崩壊から逃げるように去った時の彼の心は

失望と自責の念である。そんな只中で神の計画

は、裏側で進行していて、アブラハム契約の

再更新がなされているのである。それゆえ、

神の臨在を体験したヤコブの胸中は、失意から

希望と信仰に奮い立つ力が与えられるのが分か

る。夢の中の出来事であっても、ヤコブは神へ

の畏怖の念に駆られ、神への献身の思いを新た

にしていくのである。

 

 

 

 

神への献身というと、最もらしい行動に思うが

教会では、知的理解が十分でない状態のうちか

ら任命されるところもある。その場合は必ず

挫折で終わる。または燃え尽き症候群で終わる。

場合によっては、信仰生活までが危うくなる。

だからこそ、聖書の知的理解は重要だと思う。

献身の犠牲は、自発的な神への感謝の表れだ。

その信仰が育つまでは、軽はずみに奉仕はでき

ないと私は思っている。

 

 

今日も自分の無力を認めて、恵みと信仰により

歩んでいこう。