昨夜の夜の部のデボーションは罪に対する21
個の詳細についてであった。よくクリスチャ
ンは息苦しくないか?と問われる。確かにそ
ういう側面もある。
それは、神の御心を深い部分で理解できてい
なかったからだと今は思える。
人の御心を中心としてしまう習慣が身について
神の御心を中心に変えるには、聖書が語る文脈
を知り、学び、信頼して聖霊に変えていただく
必要がある。この原則を知らずに教会生活を
送っていた時期に、とある兄弟の不倫騒動が
教会内で取り上げられ、婦人たちはこぞって
口では言わないが、態度で冷ややかな審判を
下していた。講壇に立つ聖職者だっただけに
影響力が大きかった。私はこの兄弟からある時
自宅に詰め寄られ、聖職の任命を辞退するよう
懇願されたことがあった。私を導いてくれた人が
私の働きを妨害する人に変わっていったのだ。
この時、私は心身ともに若く、未熟だった。
自分に対する不当な扱いに心が騒いで、不倫で
問題を犯した兄弟に対して慈愛を持つことさえ
できずにいた。当然、婦人たちと一緒に冷やや
かな心を向けていた。昨夜、この罪の学びの時
その無慈悲だった自分の罪が示された。すでに
10年以上経過している罪が時を経て示された。
結局のところ、人はいつまで経っても罪人だ。
その本質を知らないと、簡単に他者を裁く性質
が顔を出す。そうすることで余計苦しくなる。
今日の朝のデボーションはクレイは出エジプト
3章・1日1章は創世記22章であった。モーセは
自分の未熟さを理由に主の命令を断るシーンだ。
この箇所は今の自分の心情と同じである。過去
の失敗が尾を引いた状態で、現在に留まろうと
する。
創世記22章では、アブラハムがひとり子イサク
を奉献するシーンである。この対比を考えた。
留まるモーセと行いで示すアブラハムである。
両者の違いは、この箇所だけで見ると信仰の差
であると言える。絶対的な主への信頼度の違い
が行いの差に繋がっている。とすれば、私もモ
ーセ寄りである。この恐れの根本が何なのか?
向き合う必要がある。混沌とした時代だからこそ
私には信仰が必要である。
今日も頑張らず、力まず、恵みと信仰によって
歩んで行こう。