夜は聖書の学びと礼拝の時間を日課としていたが
朝はまだらであった。ここにきて、朝はクレイの
本と中川牧師の一日一章の本を活用して礼拝時間
を持つことにした。これら二つが儀式的なもので
はなく、霊とまことを持って毎回フレッシュな心
で捧げられるように整えていきたいと思う。
今日のクレイの中で、いかに私たちは自分の成功
や美談を意識しすぎているか気付かされた。確か
に神中心から人間中心の意識で過ごすことの方が
圧倒的に多い。この世の心配に振り回され、心が
騒ぐのも究極的には不信仰である。信仰が何なの
か、夜「ローマ人への手紙」から学んでいる。
学ぶことに突き刺さる内容が異なる。聖書という
書物は膨大で、難解で、文脈を理解せずして通読
しても意味がない。神の言葉を紀元1世紀の著者
パウロの視点に立って読み取る必要がある。歴史
に介入される神が、ローマ人の手紙の御言葉から
現在にどう適応して捉えたらいいのかを日々考え
自分の立ち位置を思わされている。
昨日の賛美集会で歌った「君は愛されるために生
まれた」の中にも凝縮した神の人間に対する思い
がジワジワ伝わってきて嗚咽しそうになった。
この賛美は、まだ右も左も御言葉の内容も分からず
に教会生活を送っていた若い時代よく口ずさんでい
た。20年前の賛美を歌っていた時の自分と今とでは
境遇も、感覚も、賛美に対する姿勢も大きく変わり
感慨深い気持ちである。頑張りながら信仰生活を送
るのではないことが、最近感覚的にようやく分かり
はじめている。日本の教会は頑張り信仰が多い。
そうではなく、神の恵みと信仰によって変えて頂く
姿勢で委ねることの方が大事である。
頑張る=気合い=不信仰になる。
力を抜いて、ただイエスを仰ぎ見て、信頼する。
このシンプルな信仰を増し加えていただきたい。
そして、私の思いではなく、神の思いが実現する
ように祈れる者でありたい。