毒になる親という本がある。どこの家庭にも
それなりの問題がある。機能不全家族で育つ
と精神(神経)が破壊する。抑圧時期が長い
とそれだけ破壊組織が広範囲に及ぶ。聖書で
今、モーセの律法について詳細を学んでいる
が、第5戒の「父と母を敬え」という御言葉
には正直従えない私がいる。従う気もない。
幼い時から健全な愛情を受けて育っている子
供もそうでない子供が世の中には存在する。
以前、教会でモーセの律法時代は終了したと
言いながらも、一部だけ都合よく引用されて
教えられたことがある。10分の1献金と
聖日礼拝に関してである。これらも今の時代
には適応されないと教える教会が少ない。
当時、これらに加えて父の日と母の日を祝う
教会行事が大嫌いであった。教会は多種多様
の家庭のことを配慮して行事をしない。それ
が「つまずき」となる場合がある。
私はまだ不健康な信者である。教会に足を運
ぶまでに至っていないからだ。ウイルス騒動
で今はネット礼拝で通じているかもしれないが
仮にその状況がなくなったら果たしてどうするか。
答えが出ていない。それほどに教会でも傷を
受けた体験をもっている。聖書を学びながらも
突如、心の内側から両親に対するどうしようも
ない憎しみの感情が湧き出ることがある。同時
に心理学も学んでおり、自分なりに分析しなが
ら消化できるように努めているものの、やはり
まだ完全ではない。この重荷を背負って信仰に
寄り頼んでいる。きっと私は時々儚い表情をし
ていると思う。そう昨日、年が離れた友人に
話した。信仰者ではないが、情緒面では随分と
助けられた。私の社会不適合の背景には少なく
とも家庭環境が起因している。それに気付いて
人間には不可能な分野であることが再確認でき
た。全知全能の神様のみが、この深い傷の細部
に触れてくれると確信している。
子供が幼稚園や小学校に行くように今の時代
大人も心理面での学校が必要のように感じる。
それはいつの間にか受けている心の傷が抑圧
されてその矛先が無意識レベルで子供や、職場
・知人にいじめという形で向けられていること
が多いからだ。その大人の学校に教会が本来で
あれば有益であろうと思ったが、そうでもなく
なっているのも事実だ。教会の牧師が劣等感の
塊で教祖に成り代わって信者を意のままに動か
すような団体も存在するからだ。承認欲求が満
たされていないと、無意識レベルで外部に毒を
撒き散らす。例え、口先では聖書の御言葉を並
べていてもだ。だからこそ、教会選びは死活問題だ。
パウロはトゲが自分に与えられ3度祈ったが
癒されず、弱さの中でこそ、信仰が表されると
を言った。とすれば、私も情緒面の弱さを
背負いながら、同じような苦しみの中を歩む人
と心の重荷を共有しながら、全てを働かせて易
としてくださる神に祈ることができる。時とし
てどうしようもない孤独が私を襲う。そんな時
弟子たちやナザレの兄弟にも理解されなかった
主イエスを思い出すようにしている。誰よりも
イエスご自身が、孤独の中で歩まれたのだと。
見せかけの家族や友人といるよりも、心が通う
関係性がないと人間は枯渇してしまう。心とは
すなわち霊の部分でもある。長いトンネルの中
を私はまだまだ歩んでいくことになりそうだ。