父は昨日から下顎呼吸をし、
死前喘鳴がさらに
はっきりときこえるようになった。

夜中何度か起きて様子を見に来たが
相変わらず下顎呼吸で苦しそうだった。

水を何度かストローであげた。

長い夜があけた。

朝になって明るくなると、
爪が少し紫なのがわかった。…チアノーゼだ。

全体的に紫ではなく、
爪の根本あたりが、
うっすら紫色。冷たいし。

脈拍は手首でも、触知困難である。

母や姉はしなかったけど
私は数日前から脈拍数にも注意をむけてた(血圧も見るべきであった)。
それは終わりが近い人間の数値であった。


誰が見てもわかる。

もうすぐ終わりが近いと…

入院用品を詰め込み、
介護タクシーを待った。

09:00 介護タクシー着。
もう父は自分を自分で支えられないから
寝たまま乗れるタイプを。
母と姉は同乗する。
私は車で、病院まで向かった。

10:00。
病院につくと
すぐレントゲン撮影と採血検査をされた。
今まで処方されていた薬は一度全部回収され、
私たちが常備しても問題ないもの(口内炎の軟膏、かゆみどめなど)は返却された。



個室でシャワールームまでついてる。
ホテルみたい。

こんな快適そうなとこなら
数日いていいかも。

私たちは明るかった。



母は、朝からおむつ変えられてないと
医師に伝えると
医師は快くヘルパーさんと、
清拭(陰部洗浄)とおむつ交換をしてくれた。

30分ほどして、
医師に呼ばれた。

もう肝臓が腫れきっており機能してない。
カリウム値があがってる(?。この部分よく理解できなかった)
今日か明日かというとこ。
姉と母は泣いていた、
しかし納得していた。

苦痛除去の鎮静を始める。
聴覚は最後まで残ってるという。

話し合いのあと姉と母は
覚悟がきまったのか落ち着いてた。

ご飯を食べにいくという。

私は父を見るために残った。

12:30頃。
看護師さんがきて、父の腹から
点滴?(鎮静)を始めた。

 
母と姉が戻ってきたので、
私は朝から放置されてたワンコが心配なので、
家にもどることに。

14:10頃帰宅。

なんだか凄い頭痛がする。
ワンコの散歩をして頭痛薬を飲み
一休みすることに。

なんでこんなに頭が痛いのだ‥

14:50
電話があった。
姉から。

父が亡くなったって。

ああ、やっぱり。。。そう思った。

母と姉が医師に呼ばれ、そろそろ(葬儀のための)宗派など確認したほうがいいと、
覚悟はできてますかという話をしている間に
息を引き取ったそうだ。

着替えをもってきてほしいというので、
つい先日姉がプレゼントした新しいポロシャツと、
スウェットを持って病院へ。

父はおだやかな顔つきだった。
それはいつも私をニコニコして眺める父の顔そのものだった。

私の到着をまち、
16:30頃、
医師がきて死亡宣告。

そのあとすこし時間をくれて
エンゼルケアが始まった。
清拭をして、肛門や鼻に栓をして
着替えさせた。



死後硬直がもう始まっていた。

その後弟もかけつけた。
18時半頃だったか。
手配した葬儀屋さんの車が来たので
父をそれに載せて、姉と母が同乗し、
私は車で弟と帰宅した。


黄色い花

腕を伸ばして天を仰ぐ父、
それが私が最後に見た「生きている父」。

このあとはご存じの通り
通夜葬儀などで慌ただしくすぎました。

死亡診断書の死因には肺癌と書かれていました。
このあと知ったんだけど、
2回目の抗がん剤治療のときは
口内炎がたくさん出て大変だったようです。

タバコをついにやめれませんでしたから
COPDの苦しさもあり、
最後の数年は
数歩でも歩くと苦しがっていました。

時々父にもう会えないことが
無性にさみしく感じる時があります。

自宅で見きれなくなったら
入院という計画ではありましたが、
なんのために危篤間近で入院したのかと疑問に思う方もいるかもしれません。

でも、母は家で死なれるということが怖かったようです。
ここ(家)で死なれたらどうしていいかわからないって。
もちろん、亡くなったら緩和ケアチームに連絡すればいいだけなんですが、、

自宅看取りの難しさですね。
理想どおりにはいかないというか。。

父の最後に付き合えて
私は晴れ晴れとした気持ちでメキシコに戻りました。 
父のおかげで20年くらい会ってなかった従兄弟にも会えたよ。
やはり色々疲れたのか、
帰国後一週間熱出してました(^_^;)

この後も遺産分割協議書のために、
メキシコから署名証明や在留証明おくったりと
バタバタしてましたよ。
国際結婚の難しさを痛感した出来事でした。


これで、
父の最後の数日間の記録終わりです。

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