
この2冊はこの二人に育てて貰った世代の私達は読まなくてはならない本であった。
覚悟していたけれど辛い。
人はこんなにも決別する生き物であるのかと。。
この2冊を読む前に、この二人の天才を世に出した小学館の偉大なエディターであった男性の昭和少女マンガ史的な豪華な回顧録本も読んで、発売を今か今かと待っていたけれど、いざとなると少し捲っては胸が痛くなって閉じる、を繰り返してしまったよ。。
この2冊の一番の違いは厚さ!!
先に出た竹宮先生の、それは気軽に(それはある意味本当に懐かしき青春の書として)書かれたように仕立ててあるジルベールの本は一気に読めるくらいの心地よい厚さで
対する(いやアンサー的なことでなく嫌嫌ながらも書かずにはいられなかった)萩尾先生の大泉の話はその倍の厚さがあった。
言いたい事がどれだけあるのか、がこの厚さの違いに如実に現れているんだな。
人の数だけ真実はある。
強烈な天才二人の個性がたった2年の歳月でも、まるで数百年に一度重なる惑星のように強くスパークした事によって生み出された作品、ジャンルに私達は遭遇することが出来たんだと思うと泣けてしかたがなかった。
そのスパークの燃料となった時代と人、ブレインとなったキーパーソンの存在、子供であった私達は知らないことも沢山あったし、まさに「知らないままじゃなくて良かった」というのが全員思う事じゃないかな。
萩尾先生は墓場まで持って行きたいと思ってたとは思うし、竹宮先生も何も本当のことは書いていないのかもだけど。
そして紀伊国屋ホールのスタジオライフの舞台「トーマの心臓」の最前列にいていつも少女の笑みで観ていらっしゃる萩尾先生の中に、あれだけの嵐のような辛い拒絶の烈情が燃え盛り続けていることが凄い!凄すぎる!
愛されて育った天才と
毒親に翻弄された天才
何がそうさせたのかと言えば、この二人の人間性の決定的な違いとしか言えない
過去のことを懐かしむ竹宮先生は確かに都合の悪いことは記憶から消し去っているかも知れないし、しかしそれはそうすべきことでもあったのかも知れない。
一方的に書かれた萩尾先生が倍返し本を後から書いて、またお二人にしっかりお布施を私達はお納めしたことになるのもまた良しだ!!こうでなくっちゃ、素晴らしい!!
少女版トキワ荘などと言わせてたまるか!と言う気持ちはもしかしたらご本人達より私達ファンのほうが大きいにちがいない。
どんなに激しくぶつかっても酒呑んで赤塚不二夫先生のお母さんのご飯食べてワイワイしていた男達みたいに行くわけないんだよ女はね!!
この類の回顧録は書いた人が薔薇を持つのが当たり前。(人の脳内都合良すぎ)
本当に面白いことだけど、この2冊、ある一箇所以外は、ほぼ同じことが同じように書いてある。
そう、図らずもこの2冊は所謂私達の世界で良く使われる(薄い本的なことで)仕様のサイド書き?!になってる!!
おんなじ時代を双方から確認するような体験。
それは私達読者サイドからも溢れるものはあるわけで。
ただ懐かしむだけじゃないのは読者も同じだ!
みな生きていて、辛くて、今も大好きなんだから。#