目の前にある食べ物の美味しさを理解したいと思うとき、人のことを知りたいと思うときの感覚は、自分にとっては、基本
『宇宙の姿を捉えたい』とほぼ同じです。
己れの知覚と知力、人生の長さを考慮すると、完全に理解するのは叶わぬ夢なのだろうと思います。
そして、理解の対象となる存在も永遠ではなく、また刻々と変化していくもので、そう思うと、今の自分が持っている相手への理解というのは、不完全ながらそのときにしかない造形を持った作品のようでもあると。
…ああ、書いている間になんだかとっちらかってきたよ。
でもまあ、そんな感覚です。
実際に、何かを知ろうとしてとる行動は
まず、対象の情報を取り込んで分類し、それを材料に粗めにモデルを組み立てる。
↓
組み立てたモデルが、ある程度矛盾なく存在するか動作確認、または回転して眺めるように立体としての造形確認をする。
↓
モデルと実物を比べて修正する。
みたいな理屈っぽいことの繰り返しです。
理屈っぽいわりには、条件設定(珈琲なら豆の量、お湯の量や温度、抽出の時間配分なんか)はけっこういい加減、というのがワタクシの特徴です。
そこを厳密にしすぎても、本人の体調や気分の揺れの方が大きいことに最近気付いたので、そこに使う集中力を他に振り向けることにしました(自分の知覚の精度を測るために、時々はキッチンスケールを引っ張り出しますが)。
終わらない作品作りは、永遠に続けられる楽しい遊びのようであり、終われない苦行のようであり、その辺のキリのなさも宇宙じみているな、と思っています。
人生が有限で、本当に良かった。
と思う一方で、本当に一生を終えるときには
「まだ知りたいねん」とジタバタしてそうな自分が(今は)目に浮かびます。
そういう、暢気な人間として、もうしばらくは生きていきたいと思うこの頃です。