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彷徨(徘徊)の記録です。

おはようございます。

 バス停に向かう道すがら、桜山神社への登り階段を脇に眺めます。見上げると、バカなんで、登りたくなりますが、大抵はご挨拶だけにしときます。

 こないだ、つい登ってしまいました。いわゆる、奇兵隊諸氏の墓所なんですが、別名、桜山招魂社(場)とも呼ばれているこちら、つまり、この国をひっくり返しちゃる!!と、晋作先生以下、気合いを入れた場所でしょう。ずいぶん久しぶりなんですが、以前と変わらない筈なんですが、少し、空気が変わったように感じました。ぼくには。

 前、気がつかなかったんですが、境内にお龍さんの石磐が建っていました。金属製ですけど。龍馬のあのお龍さんですね。晋作先生と龍馬をつなげるのがいち時、下関の教育委員会で流行ったみたいで、三百目の埋め立て跡の岸壁にも(海響館横)、海に向けて、晋作と龍馬の石碑が建ってます。『風の中の二人』ってな具合に。我々市民からすれば、やに唐突な感じがします。べつに龍馬と無理矢理結びつけなくったって晋作先生のメチャぶりは永遠です。ま、日本国民、司馬遼太郎が好きですから、いいとしましょう。

 で、お龍さんですが、とくに何かトピックスがあって境内に建っているわけでもないようです。龍馬と連れ立って新地を訪れたのは間違いないのでしょうが。詳しい時期は記録されてないようですが、晋作先生がたおれて病床におられた頃と思しき時期、なにか身に迫る気配を嗅いだ龍馬が京へはひとり向かい、新地にお龍独り置き去りにしたのでしょうか。

 まだ元気だった頃、長府功山寺で回転義挙の雄叫びを挙げた晋作先生がその勢いのまま襲ったのがこの界隈にあった、新地の萩藩会所だったこともあり、近く了円寺、厳島神社、等、まつわる場所は何ヶ所かあります。奇兵隊諸氏がたて籠った了円寺の私邸部分の刀キズ跡をぼく、見せていただいたことあります。

 あぶねえ、あぶねえ。

 そんなわけで、現在の厳島神社への入り口辺りが当時の萩藩会所だったそうで、萩藩の連中からすればとんでもない思いだったでしょうが、なにやらかすか分からない晋作先生のことですから。

 ここ、厳島神社って平清盛となんか関係あるか?って余計なことなのは当時も同じだったのか、お伊勢さん中央集権制の神社のようですが、晋作先生に何を慕われたのか、階段上がってすぐの所に、なにやら太鼓、(ふつう、そこは鐘、吊るしとくだろ?いや、それ、お寺?)やたらデカい太鼓、あります。

 かの小倉戦争の折り、戦利品だったつもりなのか、晋作先生がぶんどって来たって書いてあります。