戦国時代もの大河ドラマ数ある中でも、これまでになかった設定なんじゃないでしょうか。
天下人になった秀吉は、今なお若い頃の初対面の感動のまま、家康に好印象を抱いたままでいるのです。
百姓あがりの足軽に、人生の指針をくれた相手。時が移り互いの立場が変わっても、あの時のことは忘れない。あの出会いがなかったら、今の自分はない──。
(しかし家康としては感謝されても何とも反応に困るというところでしょう。何しろ口から出まかせにいかにももっともらしいことを言ってみせただけでしたし、そもそも、たぶん家康の方ではこの時のことなど憶えていないのです。)
三英傑の誰が主人公寄りであるかによって、他の2人の描かれ方が大きく変わってくるのが大河ドラマです。主人公が豊臣サイドである場合、家康は自動的に「敵役」ポジションとなる訳で、それがちょっと露骨に出過ぎたように思えたのが「天地人」でした。ここでの家康、ちょっといくら何でも下卑た感じになり過ぎていたと思います。逆に、秀吉が「敵役」「悪役」ポジションだったのが「麒麟がくる」や「どうする家康」ですね。
そのものすばり、豊臣家の兄弟を主役に据えた今作で、家康がどういうキャラクターとして描かれるのか、初登場時からずっと興味津々だったのですけれども、この展開はちょっと予想外だったなあ。またしてもしてやられました。
並み居る武将たちの前で、関白秀吉に臣下の礼をとる。その時に秀吉は、「我が弟」と家康を呼ぶのです。そう、あさひを妻に迎えたのですから、家康は秀吉の義弟となる。
だったら、彼もまたタイトル「豊臣兄弟!」につながる1人だ。
対面前夜、家康は秀長を討つつもりでいました。その機会をうかがいながら、秀長と丁々発止の言葉をかわします。秀吉にとって「弟」である2人。出自も、今の立場も、人としての気質も、何もかもが違っている2人。あまりにも全てが違う2人が、多分に酒の勢いも借りながら、言葉を飾らずに向かい合う。それは鏡に映った逆転した像を覗き込むようなものでもあったでしょうか。
戦乱の時代、百姓も、主君に従う武士も、「なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか」という経験には事欠きません。大切な相手を失えば、当然に恨みも憎しみも生まれます。それは仕方がない。そのこと自体は否定しようがない。けれども。
だからといって、殺し合うのだけは駄目だ。
秀長がたどり着いた境地です。
恨みを水に流せとも憎しみを忘れろとも彼は言いません。人間、そんなことはできる訳がない。それでも、その感情を抱いたままでいいから、天下一統を。戦乱の起こらない世の中を。
徳川殿の作りたい世はどのような、と問われた時、家康は答えることができませんでした。そこまで考えたことがなかったからです。天下人になろうとしたのは、誰かの下にある限り奪われ続けるだけだと思ったからでした。だったら自分が一番上になる、今度は自分が「奪う側」になる──たぶん今この時まで、家康は、豊臣兄弟の天下取りも同じようなことだと思っていたのではないでしょうか。ただ単に、勝ち抜いて一番上に立ちたいというだけのことだと。
天下を取ったら、こういう世の中を作りたい。作ってみせる。
それまで自分になかった発想を知ったまさに今この瞬間、家康は、未来の天下人として最初の1歩を踏み出したのかもしれません。
その昔、家康の言葉が秀吉の未来を決めたように。