撮影の終わりに。 アドリアン・リース展 | 青空アロマテラピー!

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ココロ、感じるままに空に投げたら、きっと輝く虹になるっ

はじめ、
そこに私は「なにとして」存在するか、
分からなかった。

プロットを読めば、
ある程度の流れや動線は分かるが、
なぜそれをするのか
動きの衝動を見つけることが難しかった。


普段、私はひとりのアーティストとして
自分の作品を作っている。
自分の作品の答え(衝動)は
常に自分の中にある。

軸がブレることはないし、
ブレたとして、それは新しい衝動の鍵となる。


今回は違う。
プロットがあり、私は出演者。

それでいて、
すでに決まったことの他に、
かなりの部分、
創造性を任されたシーンがある。


Ursprung (源あるいは初期衝動)は私の中にはない。
アーティストの中にある。

それを理解しながら、
「今ここでリアルに創造する」
ことが求められる。


さて
最初のリハーサルがやってきた。

アーティストはいろいろ試すが
始まりのシーンが決まらない。

ほんの短い休憩時間に
ダンサーの1人である岡倉さんが
そこにあったブランケットを被って
踊り始めたことに端を発し、

アーティストは
野ウサギチームひとりひとりが
ブランケットを被ることを決める。

それは、アーティストの陶芸作品を
コンテナの中で包んでいた
分厚い工業用フェルトのブランケットだった。

その瞬間、
私の中で急に腑に落ちた。

ああ、野ウサギたちは彼の作品なのだ、と。

野ウサギたちを率いて歩く野獣は
彼の創造性なのだ、と思えた。 

作家は自分の得たインスピレーションと
時に戦い、親和し、
組み敷いたと思えば打ちのめされる。

私の中で共感出来るとしたら、これだ。

そう発見した時、
私はどういう存在としてここにいるのか
私なりの答えが出た。


野獣とウサギは踊る。
探り、格闘し、理解し、作品となる。

作家が作品を見つめる時、
作品もまた、作家を見つめているのだ。

これは私の解釈であって、
アーティストの中では違っているのかもしれない。

いずれにしても、撮影は終了し、
私は素材としてそこに収まり、役割を終える。



撮影の最終日は、
「四つの手」と題された
壁へのドローイング。

ピアノの連弾を意味する言葉らしい。

プロット上では
中盤に差し込まれるシーンだが、

融和した優しい終わりは
今回の一連のパフォーマンスの終了に
相応しいものだったと思える。

衣装が泥だらけになることも含め(笑)。



この「四つの手」の終わり、
野獣は白ウサギの腕に横たわる。
(と言っても私がチビッコなので
支えているとは言い難いかもしれないが)


ここは長く横たわる。
終わりが来たら私は観客を呼び込んで
観客はこのドローイングに近寄り
それを鑑賞する。


何が終わりか、いつ観客を呼び込むかは
君が知ってるから決めていいよ
と(英語だ)、アーティストは言う。


私は場が静まるのを待って、
カメラマンさんの呼吸を見る。

ここからは、ほんの短い時間の
カメラマンさんとのダンスだ。
呼吸を見るという「ダンス」。


私は顔を上げ、観客を呼び込む。
その瞬間を記録用のカメラがとらえてくれて、
これがその写真。


この自分の顔を見ると、
まぁ良かったんじゃないかな?と思える。
なんか、納得してる顔してる。

ホンチャンのカメラにどう写っていたのかは
もう私の知る由もない。


年明けから参加したこの出演は、
すべて終了したが、
まだ私の魂のカケラは
そこここに残っているように感じる。

私の動いた場所場所に、
空気の中に動線として記憶され、
いずれそれも消える。

私はまた違う作品へ向かう。

今回、このプロジェクトに関わっている方
全員がアーティストであり、
また幾人かがヒーラーであることも含め、
瞬間瞬間にその方々から学び、
励まされ、勇気づけられ、
貴重な経験をいただきました。


心から感謝いたします。

ありがとうございました。
お疲れ様でしたっ!

via 光と空
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