記憶は私が高校時代に遡る



高校1年時代は硬式テニス部に在籍していたが思うように試合に勝てず体力の無さを理由に退部


1年の3学期に隣席の同級生に吹奏楽部の入部を誘われ見学からの入部となる



吹奏楽部の夏休みは吹奏楽コンクールの練習で普段通り学校に行き夕陽が沈む頃に帰宅となる



弁当を持参し水筒もカバンに入れて



ある日、同級生のひとりが水分補給の水の他に炭酸飲料ジュースを凍らせて持参しているのを知り真似た



当時の炭酸飲料ジュースの甘味は健康上良くない甘味料が入っていて医師も飲み過ぎに提言していて、その後、社会的にも問題視されてく代物だった



私はソレの飲み過ぎから内臓疾患となり、やがては体調不良からの不登校を繰り返す



高1→高2も、高2→高3も仮進級


仮進級は成績の悪さもあったが高3の卒業ともなると出席日数の悪さも加わって同級生らと卒業式に出席できず年度がかわる直前まで独り補習をクリアして校長室で卒業証書を受け取ったか




そうなると新年度からの就職もままならず5月になってアルバイトを始めた



20歳を迎えた頃、父親に自分の進退をよく考えろと叱咤された記憶が残る



父親は旧国鉄に尋常小学校を卒業した身で縁故で機関士見習いから働きだし退職の直前までに機関区の指導助役にまで上り詰めている


退職金もあり老後も安泰という生き方の父に反した私の職業



私は『バイトを繋いで稼げはいいやん、切らさず働き続ければ困らないやん!』と反論したこともあり、父は『老後はどないすんねん?』と聞かれた記憶も残る





今の私を父親が、もし見たら何て言うか


病気や手術をしたとしたら尚のこと少ない年金で、どう暮らすのか


などと愚痴るだろう




自身の考えや仕事の経歴に何も後悔もない


まして病気や手術も


しかし父が考えるほど私は器用でなく利口でもなかったということ





私も生きてられる年数が少なくなったことを踏まえて少しでも貯蓄したいが日常を生きるだけで精一杯である





父ちゃん、ごめん