越後の武将といえば、上杉謙信! 謙信の居城は、新潟県にある春日山城です。全国の山城のなかでもトップクラスの広さを誇る春日山城には、謙信が信仰した仏神や、養子や家臣の屋敷跡などかつての面影を残す遺構があります。謙信が生まれ過ごした春日山城は一体どのような城なのでしょうか。
どこから攻める? 見どころ満載の春日山城
南北朝時代、越後の守護・上杉家が築城したと伝わる春日山城。15世紀には、越後の覇者・上杉謙信の本拠地として今の姿に改修されました。南に頸城(くびき)平野を一望する標高182mの鉢ヶ峰に築かれた春日山城は、山全体にたくさんの曲輪が配置され、約2km四方にも及ぶその城域の広さに圧倒されます。
城主・上杉家も色々あったのです…!
上杉謙信は、越後守護代・長尾為景の末っ子として春日山城で誕生しました。14歳で元服した時の名前は長尾景虎。31歳の時に関東管領・上杉氏の家督と職を相続し、上杉政虎(同じ年に輝虎へと改める)を名乗ります。さらに名を改めたのは出家した40歳の頃。乱世を駆抜けた「謙信」公が生まれたのです。天正6年(1578)に謙信が亡くなると、2人の養子の間で後継者争いが勃発しました。一人は長尾政景の子で、謙信の甥にあたる上杉景勝。もう一人はイケメン武将だったという北条氏康の子の上杉三郎景虎です。景勝や三郎景虎の名前は春日山城内の曲輪名としても残されています。実際にそこに屋敷をかまえていたかはわかりませんが「もしかしたらココに彼らの暮らしがあったのかも」と感じるだけで、心にグッとくるものがありますね。この景勝・三郎景虎の家督争いを「御館の乱」といい、三郎景虎が鮫ヶ尾城にて自害したことで、景勝勝利で決着がつきました。鮫ヶ尾城は、今や三郎景虎ファンが集まる聖地になってますので、気になる方は併せて下記リンクもご覧ください。
春日山城にある上杉謙信の銅像
いざ登城!春日山神社側から登る謙信の信仰ルート
春日山神社をスタートし、千貫門(せんがんもん)や堀切を通過すると直江屋敷跡にでます。直江家は、代々上杉家に仕えた重臣! なかでも、上杉景勝の代で家老となり大河ドラマ「天地人」で主人公だった直江兼続が有名です。屋敷跡は本丸よりも北に位置するため風が直撃します。特に晩秋や冬季は北風が身にしみるほど痛く感じ、本当にこんな風の強い山頂部に暮らしていたのかな…?と、疑問に感じるような立地です。
直江屋敷跡
直江屋敷を進むとお花畑曲輪にでます。その上が謙信の信仰がうかがえる城の中枢エリアです。まず最初に出会うのは「毘沙門天(びしゃもんてん)」。尊像が祀られている毘沙門堂がおかれています。武神・毘沙門天は、悪魔を降ろす神。謙信は自身や自身の軍を降魔の軍とみなして生涯で70以上もの戦をこなしてきました。上杉家専用のお堂を、本丸のすぐ下の曲輪に設けていることからも信仰の強さがうかがえます。毘沙門堂を抜けると、不識院、諏訪堂、護摩堂といった信仰エリアを抜けていよいよ本丸に到着です!
毘沙門堂。上杉家の国替えと共に移ったが、幕末に火災被害にあう。昭和5年(1930)に修復がおこなわれ、その際に作られたご分身が春日山城内に奉案された。ご分身の体内には、ご尊像の欠け損じが収められている
春日山城の本丸に到着!
いよいよ春日山城の最頂部に到着です! 本丸は、堀切によって2つの区画に分断されています。南の曲輪は天守台と伝わりますが、天守の存在はなかったであろうと考えられています。本丸では頸城平野や直江津、日本海が一望できる絶景が待っています。この景色を見られただけでも、大満足! この地域・環境が戦国時代最強の武将と称される上杉謙信をつくりあげたのですね。
本丸は長さ36m、幅24mとそれほど広くないが、眺めが抜群に素晴らしい
本丸では頸城平野や直江津、日本海が一望できる絶景が待っている
広大な春日山城には見るべきポイントもたくさん! 本丸の南西には、謙信の跡目を相続した景勝の屋敷もあり、その下には家臣・柿崎景家の屋敷……さらにその下には段々と曲輪が設けられ屋敷跡が続きます。また城内を走る御成街道や大井戸など、見どころはまだまだたくさんありますので、詳しく知りたい方は下記リンクをご覧ください。
【日本100名城・春日山城(新潟)】山まるごと城にしちゃった!上杉謙信の巨大すぎる居城
※この施設の情報はYahoo!ロコから提供されています。
また、春日山城を訪れた際には上越市埋蔵文化財センターにも立ち寄ってみてください。ここには、春日山城のある頸城地区の遺跡からでた出土品や、縄文〜江戸時代の人々の交流や暮らしを紐解く展示が並んでいます。
上越市埋蔵文化財センターをYahoo!地図で開く
上越市埋蔵文化財センター
新潟県上越市春日山町1丁目2-8