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オレンジネコのブログ

 
 
すみません開始から1年以上たっても何がなんやら(笑)
ここのコメントもようやく少しお手入れ。
内容は統一感なく色々?やってます。
こんな感じですがたまに役に立つかもしれないことも書いたりなので、
もしよろしければお暇なときにでもご覧ください。

 

いろいろな人と接する中で教わった言葉の中に誤学習という言葉があるのですが、すごく印象に残っている言葉で今でもたまに思い出しては物事を見つめなおしたりしています。

 

言葉的には間違って覚えてしまうことを指す言葉だと思うのですが、特に様々なことを日々吸収する子供さんやら、人間のルールとのすり合わせが必要なペットを飼う場面なんかでは結構意味合いの大きい言葉かなと思います。

 

人間の子供でいえば、

例えば、

 

泣いたらお菓子をもらえた。

→お菓子がほしい

→もらえないから泣く

→泣けばもらえると思ってしまう。

 

みたいなことですが、少し広くとらえると、そうわかりやすいことばかりではないなぁとも思ったりします。

 

子供は結構頭がいいと自分は思っているのですが、たぶん一般的には子供にはわからない理解できない的なほうが多いのかなぁという気がします。

騙されやすいじゃないかとか、よくわかってないじゃないかとか、そういうあたりからだとは思うのですが、けどそれは経験の問題だよね?という気がします。

子供は知識量や経験はまだまだ少ないです。

だから判断の面では大人に比べると劣ることがある。

でもバカなわけではない。

 

騙されやすいのは物事を見分けるための知識や経験が少ないから・・

という感じを捉えると、実はそこが誤学習の話とつながってきたりします。

 

大人は、自分たちの都合で善悪を使い分けます。

仲間内なら許されること、状況に応じて許されること、家族なら許されること、いろんな条件で、それはいいこれはダメと勝手にその都度判断しています。

 

ただ子供にはそれがいまいちわからない。

例えば、家での話を子供が外でしてしまって恥ずかしい思いをするとか、そういうのもそうだと思うのですが、日々の生活の中でそういう誤学習は結構起きているんじゃないかと思います。

 

友達のママの悪口とか、家族への不満、強い口調に汚い物言いや行動。

 

最近多く感じるのが店員さんへの態度・・なんかもそうかなぁと。

親が待たされてイライラをぶつける様子や、お礼を言わない態度は、実のところ子供がそのまま誤学習しより酷いことを言ったりしたりもします。

 

ちょっと悪い例をあげすぎましたが、別に悪いことじゃないんじゃない?ってことでの誤学習もあったりします。

 

子供は経験や知識の積み重ねが少ない分、たぶん善悪の判断は見よう見まねで偏るように思います。

親が兄弟を叱る場面を見てそれを覚え、自らが兄弟を過剰、もしくは不必要におこってしまったりは、親がしていることは正しくて、それをまねて張り切ってしまった結果かなぁと。

 

覚えることの頭の良さと経験知識がアンバランスなので、大人から見ると頭良くは見えないのかもですが、ちゃんと観察もしているし考えてのことだし、気持も動いてる・・

 

うーん、わかりにくいですかね・・・

例えるなら・・・まだほとんど中身の入ってないパソコン・・みたいなものですかね。

 

パソコンて、計算もできるし、日本語変換もできるし、いろんな事が出来ますが、じゃあ、中身全部消したらどうなるかというと、何もできません。

 

子供はちょうどいろいろなソフトや辞書を入れて使うごとに変換の癖やなんかを覚えて変換しやすくしていってる段階です。

 

パソコンだとピンとこない人はスマホでもいいですが、買い換えた直後は使いにくくないですか?

あなたに関する使い方の癖、知識や経験がないからです。

 

パソコンやスマホに例えましたが、人間がさらにややこしいのはそこに感情もあること。

聞かされた話で、やはり記憶にすごく残っている話があるのですが、母が祖母に叱られるときに、どうしても嫌だった言葉があると話してくれたことがあります。

それは、父親やその親兄弟に悪いところが似ている。というものです。

 

母は物心ついたころには片親で育ったので、そのよく知らない人達に似ているといわれてもどうしようもなくつらかったそうです。

 

祖母は悪いところは似るなというつもりだったのかもしれませんが、子供にはそれが理解できず、母はただどうしようもないことで責められたと感じたのだろうと思います。

 

誤学習の話に戻りますが、子供は後天的に学習したことから親に似るものだと自分は思います。

そこから学んでいるのですからそれは当然で、自分も無意識に両親から学んで似ている部分はあるとそう思います。

 

問題は正しい学習と誤学習をどうとらえられるか?かなぁって気がします。

 

自分は、たまに口調が強くなったり、ものいいやなんかが悪い時にそのことを思い出します。

 

子供は成長するうちに社会性を身につけその中での影響や学習、そして経験からバランスを取っていきますが、意外と親からの影響が強いなぁとよく思います。

あとは、どこで自分を振り返れたかでもかわるかなと。

 

誤学習をどう訂正するか、誤学習させないようにするには?は、様々な影響のバランスを解きほぐさないとなかなかに難しいなぁと思います。

 

子供に理屈は通じないとついつい一方的な口調になってしまうこともあるかとは思いますが、自分は子供に接するとき、わかるか分からないかは別としてそれを説明するようにしてみています。

 

別にそれは子供に限らずですが、怒るとかじゃなしに説明するは大事かなぁとそう思っています。

まぁ大人のほうがたいていすぐに否定して聞く耳持たないですが・・(汗)

 

実際自分の子供のいる方々からすれば、四六時中は無理だろうとは思いますが、やっぱり理由は欲しいかなと・・これは自分の子供時代の経験からですが。(笑汗)

 

誤学習に気を使い真剣に向き合っていた人の姿を今でも思い出します。

 

 

うさんくさい・・・

なんとなく自分の言動というかブログなんかへの客観的感想です。(汗笑)

冗談かというとそうでもなくて、ようは口当たりのいいことばかりに聞こえるよなぁって話です。

◯◯が素敵、素晴らしい、人間ていいよね、つらいよね、かなしいよね、がんばってるよね、感謝しよう、いい人だ、学ぶことがある・・・

そんな言葉ばかりだとなんか超うさんくさい。
キラキラしたことばかり言ってて気持ち悪いし、なんなんだろうって自分に思います。

まぁ正確にはそんなキラキラワードばかりじゃないし、中身には条件があるのですが、
ただ、一部ワードを印象的に捉えると、すっごい怪しいやつだなって感じがします。

だから決して安易に信じないように。

と、そんなことをふと思いました。


まぁ実際にはこれに似たようなことをこれまでも言ってはいるのですが、要するに盲目になるなって、話だったりします。

とてもいいことのようだったり、たまたま心を捉える人だったとしても、ちゃんと自分の考え意思をもってそれがなにか?を捉えようとしないとダメな気がします。

仮に僕が言ってることが正しかったとしても、実はもう一度自分でその事を考えると新たな側面に気づいたり、別の誰かの意見とうまく纏めていくと、いいとこ悪いとこを見つけられたり、
そもそも、いいこといってるように見せてるだけだと気づけたりします。

だから、どんな相手であろうとも、その人が何を考えどうしてそこに至ったか、そして自分はどう思うかが大切だったりします。

こうしてわけのわからないことを言ってる側からすると、自分は聖人じゃないし、すべてを知ってるわけじゃないし、常に間違わず正しいわけじゃないです。
むしろ毎日間違えたことを考えたり、おかしなこと、正しいことを試行錯誤してるだけの人です。

だから他人は全く信用するな、なんてことは言いませんし思いませんが、自分であろうと他人であろうと、信じるべきは信じるし疑うべきは疑う、それだけのことです。

よく、
疑問=疑う=信用してない
と、信用してるから疑わない。ことが正しく美しいもののように思われていたり、疑問や疑いを裏切りのように捉えることがありますが、

そこはそうじゃない。

と、そう思います。
信じるためには、まず疑問点をクリアにしなければならないし、疑わしければよく考えなければならない。

人を疑うというから聞こえが悪いのかもしれませんが、疑ったり確認したりするのは自分に対しても、です。

自分に置き換えればわかりますが、自分は間違っていないと考えないでいれば、自分の弱さで避けていることも、ただ正当化しているだけのことにも気づけません。

正しいと思い込んで間違い続けてしまう。

ただ正しいとするだけなのは、単純に考えてないだけで、それは自分に対しても他人に対してもそうだと思います。

例えば、我が子を信じる。
とてもいいことばです。
ですが、我が子が何事かに悩んでいてそれで間違いを起こしていたら、信じるだけでよかったのか・・

人間なにも悪意をもってだけ、間違ったりするわけじゃありません。

悪意のない間違いもあるはずです。

また、自分自身に置き換えてみてください。
知らないで間違いを正しいと主張してたことはないでしょうか?
正しいとかたくなになっていたことが、自分の弱さをつかれたくなかったからだと気づいたことは?
親を心配させたくなく黙っていたことは?
嘘をつくつもりなんかなく、ただうまく否定できなくて結果嘘をついたことになったことは?

そうやって考えていくと、疑問を持ち考え確認することや、何かおかしなことを疑うことは悪いことじゃないと思えるのですがどうでしょうか?

疑うという言葉は響きがよくないかも知れませんが、信じるためにはそれが何なのかを考えることは大切だと思うのですが・・

ただ信じて裏切られたというよりも、その人の持つ弱さからどういう間違いをしてしまいそうかを考え知れば、信じるべきその姿が見えてくる気がするのですが・・・。

そして、口当たりのいい言葉の本質も見えるのでは?なんて思ったり。

それはそれとして、キラキラっぼい自分は気持ち悪いので嫌です。(笑汗)

書いてるときはそんなつもりなくですが・・・

それに仮に自分を信じる人間がいたとき、どこかの怪しい人のキラキラワードに騙されて酷い目にあったりしたらやなので、騙されないようにちゃんと考えてくださいと。そんな話でもありす。



最近、昔見た古いアニメを見る機会がありました。

タイトルにもある通り『十兵衛ちゃん』という作品で、作品自体はチャンバラ要素に、マサルさん的な雰囲気の笑いの要素のあるものなのですが、
自分的にはこの作品見ると涙が止まらなくなる話だったりします。


内容的には普通の女の子が、二代目柳生十兵衛の証を受け継ぐことになり、その力その証をめぐってさまざまな因縁に巻き込まれていく・・。

と、そんな話なのですが、その剣術には過去からの因縁に囚われ続ける人の思いを断ち切る力があって、それによって相対する人達が救われていくお話でもあります。

今回見たのはその2作目で、シベリア柳生の逆襲というもの。

一作目で、巻き込まれ的に二代目となり、普通に暮らしたい思いの主人公はその力を拒みながらも、
相対する敵の300年という長きにわたる因縁とその思いを断ち切り結果的にその人達を解き放ったた主人公でしたが、
今度は柳生を名乗る人々のそれぞれの思いに巻き込まれていきます。

真の二代目を名乗るものと、追いやられた柳生、それぞれの思いの中、自らの思い、父の思い、かつて助けた人々の思いの中で苦しみもがきます。


と、あらすじ的なところはそんな感じなのですが、
この思いの部分が、二作ともにすごく自分的には響く部分がある話だったりします。

剣を交えるシーンがたくさんありますが、実はそれはそれぞれの思いの交錯するさまでもあり、それぞれがそれぞれに信じた道を進んだ結果であったはずのもの。

大切なものを取り戻すためであったり、剣を交えたいという思いであったり、呪いのようなものであったり・・
それぞれの正しさに囚われその中でもがく人たちの物語・・と言い換えてもいいかもしれません。

なんとなくその様は、普通に生活しているように見えるこの世の中でも、実はみんなそういう部分てあるよなと思うと、ただのアニメの話とは思えない部分もあります。

生きてくる中で、自分なりに努力をしたり、正しくあろうとしたり、心の大切な部分を守ろうとしていたことが、いつのまにか、その思いの形ばかりが強くなり、そこに影を作り、気付かないうちに闇の部分に取りつかれていたりする。
強い思いやこだわりが、最初の何かを置き去りに、ただただ、正しかったはずというだけの経験則として作用し続けてしまう。

そもそも、今できることをしようとしただけでまだ完成もしていなかったはずのものが、重なり続けるうちに、離れられない正しさのようになって自由に生きられなくなる。
思いや経験の足かせってたぶんあって、それはいつのまにかそこにある。


たぶん、このアニメの中で切っていた思いは、そうしたものと同じようなもので、どうしても抜け出せない自分自身の中にある呪縛から解き放ってくれるもの。

だから、解き放たれた人達は同じ思いを抱える人達を切ってほしいと懇願する。
けれど、そんな思いの深さは、ただの女子中学生だったはずの主人公にはすぐにわかることができるはずもなく、ようやくわかる気がしてもその思いは重すぎて。
そしてさらに言えば、その剣術は彼女自身の思いを救ってくれない。

なぜ、どうして?という思いと苦しみは、その力の重みとともに彼女自身にのしかかる。


今回見た二作目は、一作目での確かに人々を救った彼女があっての、その再び、です。
すっきりと納得できてはいない思いや不安もあるなかで彼女自身したいと思うこともいくつか見え隠れしてきたりします。

ただ、その思いはまたそれでつらい部分がある。

状況に流されるだけよりも、今度は自分の意志との部分で責任感のようなものも生まれる。
それは、関わってはいけないという思いをより強くさせ、拒絶させ、そして普通であろうとする。

ただ普通でいたいだけなのに、状況はさらに彼女自身を追い込む形に進んでいってしまう。


アニメって、誰かができないことを特別にできてしまう部分に夢のような世界を展開しがちですが、この作品はむしろその特別が苦しみの種になる。

けれど、その種は大事な人を巻き込んでしまう。という不安の先に、実は大事な人達を守る、もしくはそういう人達をまた一人と増やす種にもなっていて、たぶんそこが人が成長するっていう部分とリンクしているんだろうとそんな気がします。

彼女自身、最後にかけて、これまで避けようとしてきた自分自身の思いと向き合うことを知ることで、切れない自分自身の思いを、別の形へと形作らせ、少しだけ素直に、そのやりたい思いに近づけるようになった感じで、最後の戦いを迎えます。



なんかだいぶ長い回想なんだか感想なんだかわけのわからない文章になっていますが、なんとなく、このアンバランスな力と心の葛藤のようなものに共感してしまう自分がいます。
できることがそこにあったとしても、それが本当に正しいのか、自分が本当にできるのか、自信を持って間違いないと言えないことなんて山ほどあって不安と迷いは尽きない。

それに、人の思いは必ずしも間違いではない部分で壁にぶつかることもある。
確かに正しい言葉も、その人間には毒であったり、間違ってしまうことがその人を育てることもある。

普通の正しさだけでは救えない思いはたくさんあって、どうしようもなく間違っていることはともかく、その気持のベクトルをどうするかはむずかしい。

そして、そこに向き合っていても何もできない無力感もまた重い。

答えのない話ですが、そんな気持ちを揺さぶる作品です。
それぞれのキャラクターの叫びが心にいたい。