どこかで、27歳で自分の人生は
終わっていること。

もう10年近くそんな風に考えている。

特殊なかたちの大恋愛をして
幼いときからやってきた音楽への落とし所もつき、
自ら命を絶とうとした。

三日間昏睡状態の果て、
目覚めたら、愛した人の腕の中だった。

起きた時、もう別れようと決めた日でもあった。
相手も取り返しがつかないほど傷つき、迷い苦しんでいる姿も、
依存という名の愛のかたちも
私には受け止められなかった。

いつも人には自由でいて欲しいと思う。
最後別れるとき、区役所に行く道すがら、
彼を実用車の荷台に乗せて
普段通りのようで、もう二度会うことはないことも知って手放した。

そのあと、いつもカフェでランチを食べ
「愛してる」と言って抱擁し離れた。
知り合って10年以上、付き合って7年。
結婚生活は短く、つらい選択だった。

そこからの何年間は
死んだように生きた。

先の見えない悲しみに、私は何にも
することができなかった。

3年経っても変わらず、
当時の編集の仕事の契約終了と父の悲報で
さらにおいつまった。

その週、
たまたま友人がくれたイラストのお仕事をこなしたとき、
私は無だった。

どんなに哀しく絶望していても
作るということで、
未来を開いてきた。

本当に愛する人と結婚し、
短いながらも、多幸感に包まれ
わたしはそれでも幸せだったと言える。

世の中の夫婦がどれだけ本当に愛した人と暮らしているのかは、知らない。

そして、いま
わたしは余生としての日常ではなく
娘を一人産み、母として女として四苦八苦しながらも育て生きている。

好きな人達も側にいて、
フリーランスという自分のやりたい仕事もとれるようになり、まだまだ働いて
強く優しく生きていくことを決めた。

妊娠中も辛く、東京の片隅で満員電車に揺られながら、つわりも出産も乗り切った。

二番目の夫には愛などない。
好きではあったかも知れないけど思い出すこともない。

あの頃に戻ったしても彼を手放したこと、
そして、今好きな人達と手を取り合い生きているこの日常は余生ではなく、未来ある毎日。

人は今が全てでなく、今という一瞬の繰り返しで未来がある。

私は私らしく生きるためには
必ず隣に誰かが必要なことも知り、
弱さを受け止め、伝えることができる。

私はまた誰かを心から愛することができると、もうわかっている。

相手に伝わらないと、意味がない。
相手に伝えなきゃ、意味がない。

それは余生としての日常が教えてくれたこと。